「たばこと塩の博物館」

そこからBunkamuraまで降りて、スペイン坂を登って、途中昼ご飯を食べ、最後に向かったのが、たばこと塩の博物館だ。入館料はなんと100円だ。

西アジア遊牧民の染織』という民族色豊かな織物が展示されていた。そんなに古くなく19世紀中盤から20世紀後半ごろまでに作られた織物だ。塩袋、小物袋、敷物など。合成染料ではない滋味深い色合いがいいね。手織りの歪んだ感じも、作り手の個性が感じられて楽しいものだ。

この博物館の3Fは塩に関する常設展で、2Fと1Fはたばこに関する常設展があって、いずれもなかなか見応えがあった。専売公社になる前の方が、デザインなど味があるなぁとは妻の言葉、やっぱ国営にすると多様性が失われてしまうのかな。

いつもは埃っぽくて人だらけで、個人的にあまり足を向けたくない渋谷だが、気持ちの良い風が吹く、心地よい5月のミュージアム巡りだった。

「戸栗美術館」

そこから、途中、鍋島松濤公園で亀の甲羅干しを見て、すぐ近くにあるのが、戸栗美術館、陶磁器専門の美術館だ。

初期伊万里が展示されていた。ここは財団法人で、入館料は1000円だ。初期伊万里というのは1610〜1650年ごろの色絵が始まるまでの最初期の伊万里焼を意味する。まだ技術的に完成されておらず、色がまだらだったり、形が歪だったり、模様もざっくりとした磁器だが、なかなか味があって、子どもの頃から見て来たカラフルな伊万里焼に、多少うんざりしている佐賀生まれの私には、こっちが素直に鑑賞できると感じた。妻は、色絵直前の赤茶色系のものが好きだと言っていた。

「松濤美術館」

最初は、京王井の頭線神泉駅から歩いてすぐの松濤美術館だ。

我々が行った2008年5月には、『中西夏之新作展絵画の鎖・光の森』というのをやっていた。一度行ってみたかった独特な外観の建物だ。入館料は300円と区立らしい安さ。B1と2Fが小振りの展示会場になっている。中西夏之の、抽象的もしくはデザイン的な油絵とドローイングは涼しげだ。紫陽花のような、空から流氷を撮影したかのような、散って、動いて、まとまって行く動きが感じられる絵である。色もストイックで、白を基調に、紫と黄色が少しだけ。なかなか気持ちいい。

モーニング・イン・リオ

セルジオ・メンデス
モーニング・イン・リオ(期間限定特別価格)

セルジオ・メンデスの新譜です。じいさん若い。ボサノバやっぱ好きですね。それに、このアルバムは豪華絢爛たるゲストにフィーチャリングされています。どれもカッコいい。途中、ドリカムの吉田美和の歌声が聞こえて来たときには、あまりにボサノバとぴったりなので驚きました。曲目リストは以下。

1. ルック・オブ・ラヴ feat. ファーギー
2. ファンキー・バイーア feat. ウィル・アイ・アム&サイーダ・ギャレット
3. 三月の雨 feat. レデシー
4. オド・ヤ feat. カルリーニョス・ブラウン
5. サムホエア・イン・ザ・ヒルズ feat. ナタリー・コール
6. ルガール・コムン feat. DREAMS COME TRUE
7. 夢見る人 feat. ラニ・ホール&ハーブ・アルパート
8. モーニング・イン・リオ
9. イ・ヴァモス・ラ
10. カタヴェント feat. グラシーニャ・レポラーセ
11. アコーヂ feat. ヴァネッサ・ダ・マタ
12. おいしい水 feat. ウィル・アイ・アム
13. 三月の雨 feat. ザップ・ママ
14. イ・ヴァモス・ラ feat. フアネス

三月の雨がどういう歌詞なのか、付属のリーフレットで初めて知りました。現代詩のような味わい深い歌詞だ。いいね。エリス・レジーナが歌うYouTubeのビデオを以下のサイトで見ることができます。
三月の水(三月の雨) ボサノバ(ボサノヴァ)


追記:
相変わらずボサノバが好きだ。以下のインターネットラジオを良く聞いている。
Bossa Nova - SKY.fm(クリックするとiTunesなどが開きます)
このラジオを聞いていると、ボサノバというのは不思議なジャンルだと思う。

使われている原曲の数がとても少ない。それを繰り返し繰り返し色んな人がアレンジして歌っている。この無限のループ感覚は南国のまどろみに浸る白昼夢のようだ。ジャズのように他のジャンルの曲をも、どんどん原曲に取り入れるどん欲さがなく、スモールワールドで、気心の知れた連中とのんびりと楽しむ。そういう生き方もありか、と現代日本社会とは別の価値観を教えてくれる。それに多くの人が魅かれているのだろう。

西田幾多郎<絶対無>とは何か

永井均
西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

私は哲学の本を読むのが好きです。なので色々手を出してはいます。ただ西田幾多郎はさっぱり分からなかった。

この本の冒頭でも書かれていますが、西田の文章は、日本語とは思えないほど読みづらく、わかりづらい。30ページほど我慢して読んで挫折、というのを何度か経験していました。ただ、なんとなくフィーリングとしては、私の考えに近いような気がしていて、いつか再チャレンジ、と思っていました。そこに横から救世主が。

永井均氏は千葉大の哲学の先生で、私は彼の『ウィトゲンシュタイン入門』『<子ども>のための哲学』『私・今・そして神ー開闢の哲学』を読んでいます。どれも、平易な文章でありながら、ドキドキさせる深い内容が書かれています。ファンと言ってもいいかもしれない。彼が西田幾多郎の入門書を書いているのですから、これは読まねばと思い購入しました。結果、期待に違わぬ本でした。以下、私の理解を少し書いてみます。


私(もしくは意識)などというものはありません。経験があるだけです。もしくは経験が、すなわち私だ、とも言えます。こう書いてくると、昨年末にレビューを書いた中村昇の『錯覚する脳』や、ホワイトヘッドを彷彿とさせますが、実際、永井が描く西田哲学は、とても近いところにあります。

「私が、雷の鳴っているのを聞いた」ではなく、「雷が鳴っている」だけであって、それがすなわち私です。「長いトンネルを抜けると雪国」なのであって、「列車が長いトンネルを抜けると」でも、「私が長いトンネルを抜けると」でもありません。

私は、私の中では対象としては位置づける事ができません。何も無いルート(根)にあたります。世界はすべて、そのルートに繋がる枝葉として把握されていて、しかし、枝葉にはルートだけはありません。場所とは、このルートに繋がるすべての枝葉であって、枝葉が広がる場所です。


後半に出てくる汝(あなた)の話も見事です。その枝葉の繁る中に、あなたが出てくる。そのあなたは、少なくとも私の中では、私と同じく何も無いルートに連なる枝葉であって、つまりは根っこに無である私をかかえている。私である場所の中に、無を従えるあなたが含まれているという無限の入れ子構造になっています。

では、あなたを位置づけることができるのは何故か、単に経験だけからなる筈の場所の中に、あなたが現れるのは、概念を扱える言語なるものがあるからです。逆に言えば言語は、あなたという不可思議な存在があるから生まれたものだとも言えます。あなたと言語は不可分です。

やさしさの精神病理

大平健
やさしさの精神病理 (岩波新書)

森氏の本にも引用されている1995年発行の岩波新書、名著です。ベストセラーになったように記憶していますので、既読かもしれません。精神科医の著者が、病院を訪れた数人を題材に、昔とは違う現代的な「やさしさ」について語っています。もう13年も前の本ですので、ポケベルなど懐かしいアイテムもでてきますが、書いてある内容は古びていませんね。各章がそれぞれ一人の人物を中心に書かれていて、各々短編小説のような深い印象を残します。現代の小説家が書いた連作短編集といっても通用すると思います。

席を譲らないやさしさ、好きでもないのに結婚してあげるやさしさ、黙り込んで返事をしないやさしさ、など、考えさせられます。どの章も印象的ですが、特に第3章「縫いぐるみの微笑み」と終章「心の偏差値を探して」は、鳥肌が立つような見事な話です。第3章では精神分裂症にかかった若者と、小さなリスの縫いぐるみの話で、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせます。終章は司法試験に挑むエリート青年の挫折と再生について書いてあり、青春小説の一種として読む事もできます。