本を読む本

M.J.アドラー、C.V.ドーレン著、外山滋比古、槇未知子訳
本を読む本 (講談社学術文庫)


原書は、“How to Read a Book” (1940年出版)、訳出は1978年だ。

本の読み方を指南している。それも、「読むに値する良書を、知的かつ積極的に読む規則を述べた」本だ。フィクションの読み方も第三部で触れらているが、ほとんどはノンフィクション、その中でも、歯ごたえのある書籍を読み解く技術に、多くのページが割かれている。古い本だが、訳には全く古さを感じない。また日本語としても一流だ。次から次に、読書の本質についての名言が現れる。

曰く、


読むこと、聞くことはまったく受動的だと思っている人が少なくない。(中略)相手から積極的に送られてくる情報をただ受けとればよいと考えるところが、まちがいである。(中略)読み手や聞き手は、むしろ野球のキャッチャーに似た役割をもっている。

さらに曰く、


読書技術には、『手助けなしの発見』のために必要な技術が、すべて含まれているのである。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、そして分析や思考によって鍛えられた知性

なお、この本自体、文章の読みやすさに反して、必ずしも読みやすい本ではない。それは、この本自体が「知的かつ積極的に読む」ことを求めている本だからだ。

日本は識字率が高い国である。そのため、本なんて誰にでも読める、読み方なんて教わらなくても大丈夫、という認識が、広く共有されているように思う。しかし、少なくとも私は本の読み方を学校で教わったことがない。外山先生が訳者あとがきで書いているように、昔の日本人の本の読み方は求道的、人生的で、我慢して読め、という精神力の問題だった。これでは読書の「技術」は問題にならない。

しかし、日本人の読書にも、実際的で、知的な読書に重点が置かれるように変わって来た。これだけメディアが発達し、ネットに情報があふれている世の中だが、ちゃんと分析的に読める技術の重要性は増すばかりだ。では、私の学生時代と違い、娘たちが受けている国語教育では、実際的で、知的な読書法を教えているか、というと、残念ながら、まだそうではないようだ。

著者のアドラーは、人間の精神が持つ一つの不思議なはたらき、として、「どこまでも成長しつづけること」と言っている。知的な成長をすると、世界が開けて見え、自分が一つ上の階層に登ったような気になる。囚われていた蒙昧から抜け出せる心地よさを味わえる。これから、また、どんな面白い本に出会えるのだろうか。楽しみだ。

なお第三部のフィクションを扱った章は、小説のレビューを書く方法として、参考になると思った。うまく要約、翻案できれば通信文として流したいと思う。


2009/02追記
この本は、目的的な読み方の基本を説いているのだが、あえて素読する良さというのもあるだろうな。または良くわからないながらも、とりあえず読み終わってみるというのも。理解できないところや読めない漢字は読み飛ばしながら。ただ、この本に書かれているようなボールを受け取る能力を磨くことの重要性は変わらずあるとも思う。

ところで本を読まないと、ボールの受け方を忘れてしまう。だから軽いものでも良いので、キャッチボールを続けるべきだろうと思う。時々、しっかりと投げ込んでもらう。変化球をもらってみる。この本が取り上げるのは、いわば思いっきり体重の乗った重い豪速球である。そんな球ががっしりと取れれば、それは気持ちいいだろうね。