パリ左岸のピアノ工房

T.E. カーハート (著), Thad E. Carhart (原著), 村松 潔 (翻訳)
パリ左岸のピアノ工房 (新潮クレスト・ブックス)


「面白い本」という言い方には、いろいろなニュアンスが含まれている。それは「おいしい料理」にもさまざまな言い含みがあるのと同じだ。まず、夢中になって楽しめる小説や、ドキドキさせてくれる小説といった、テイストの違いがある。また、滲みてくるような味わい、鮮烈なクリスタルガラスのような印象といった、伝わり方の違いもある。そして、その場かぎりの楽しみではなく、愛着を感じ、大事にしたくなって、あまり大きな声で面白いと言えなくなってしまうような、「面白い本」に出会うことがある。本棚に納めておくと、自分自身の一部になったかのように感じる本だ。

私がたくさんの本を読むのは、そういう本に出会いたいがために読んでいる、という面が多分にある。私という個人は、この肉体だけでなく、これまで食べた物、暮らして来た場所、家族や友人達、そして、それらの本から構成されている。本を読むというのは、私を作り上げる行為だ。

『パリ左岸のピアノ工房』(The Piano Shop on the Left Bank)はすでに、私のそういう一部である。

主人公はアメリカ人、語り手でもある。彼は、あるピアノ工房に出会い、そこを通じて様々なピアノ達や、人物と出会う。パリの静かな住宅地の一角に、素っ気ない看板の、人気の無い小さな店がある。その小さな入り口を入ると、奥には、外からの光が降り注ぐ広い工房があり、年代物のピアノが何十台も修理を待っている。

まるでおとぎ話のような設定だが、実はこの話は著者のカーハートの体験したノンフィクションなのだそうだ。パリというのはなんとまぁ魅力的な街なのだろう。

ピアノは大掛かりで、また高価な楽器だ。なのに、私たちにやたら身近な存在である。小さな子供の多くは、特に女の子はピアノを習う。学校には必ずピアノがあって、ピアノのある家も少なくなく、昼間に住宅地を歩くと、どこからかピアノの練習曲が聞こえてくる。

私の妹もピアノをかなり長期間習っていた。彼女が家にあるアップライトで練習しているのを、横になって本を読みながら聞いていたのを、ふと思い出すことがある。練習は失敗を繰り返して上手になってゆくので、同じフレーズを何度も聞いていた記憶ばかりが残っている。時々調律士がやってきて、和音を響かせていたのも憶えている。娘も中学まではピアノをやっていた。日本の中流家庭で育った多くの人は、同じような経験と記憶を持っているだろう。のだめを読んで共感する所があるのも、そういう素地が効いているのではないかと思っている。これを読むと、アメリカ人もフランス人も、みなけっこう共通した経験と印象を持っていることを知る。

本の最初のあたりで、主人公は、シュティンゲルというメーカーのベビー・グランドを、ピアノ工房から手に入れる。ピアノ工房の若い職人であるリュックが言う。

あんたはピアノといっしょに暮らすことになるし、ピアノのほうもあんたと一緒に暮らすことになる。ピアノは大きいから、無視することはできない。家族の一員のようなものだ。

ピアノは、そもそも形が美しく、もちろん魅力的な音がする。楽器でありながら、複雑な機構を持つ、機械の一種である。多くの憧れをかきたてる一方、大きく重いので邪魔でもある。また木でできていて、複雑な機構になっているので、メンテナンスにもかなり手間とお金がかかる。ピアノを自在に弾きこなすには、相当の努力と時間が必要で、ピアノがひける人への憧れもある。そういう、様々な思いがピアノには重なっている。

本の中には、いろいろなピアノが登場する。古いピアノ、新しいピアノ、フランスのピアノ、イギリスのピアノ、ドイツのピアノ、日本のピアノ。くたびれている小さなエラール、ローズウッドのスタインウェイ、ベヒシュタインのグランドピアノ、ファツィオーリ。一つ一つが個性と過去を背負って存在しており、登場人物たちと、まったく等価な重みをもったキャラクターとして描かれている。

どの登場人物も魅力的だが、中でも、すごく耳のいい酔っぱらいの調律士と、ピアノを背負って階段を上る運送人、そしてレバノンから亡命して来た女性ピアノ教師が印象的だ。

本の中では、ピアノがどういう楽器で、どのように変化してきたのかが丁寧に解説されていて、多くの発見があった。例えば、ピアノは打楽器の一種で、歌うのに向いていない、というのがある。私もおぼろげにそう思っていたのだが。ピアノは、キーを押せば音が出るという一種の機械なので、揺らぎやニュアンスといったものが出しにくい楽器である。もちろんペダルや、押し方、押すスピードや加速度で変わりはするが、その変化は、弦楽器や、さらには人間の歌声とは比べ物にならない、小さなゆらぎでしかない。ピアノを習ったことがある人なら当然知っているだろうが、ピアノにはこの弱点をカバーするさまざまな演奏法が開発されている。多くの人は、そういった演奏法を贅沢にちりばめたプロの演奏をメディアで聞いて育っているため、まるでピアノが流麗な楽器であるかのような錯覚を持っていはしないだろうか。

ショパンの音楽は、他のどんな作曲家の作品にも増して、ピアノという楽器の中核にあるパラドックス -- どうやって打弦楽器を歌わせるか -- に真っ向から挑んでいる。(p.121)

私は、ピアノで奏でられる演奏が美しいのは、アールデコや、モダニズム建築に類する、機械的な、または抽象的な側面があるからではないかと思っている。人間や生命とは、そもそもの成り立ちから違う、宇宙人のような存在が奏でる流麗な響きが、いいようのない美しさを感じさせるのではないかと思っている。

バルトークのピアノ協奏曲などを聞くと、ロマン派の音楽では美しく整っていた、その仮面がはぎ取られて、荒々しい打楽器として素顔が現れるのに、驚きと魅力を感じる。

読んでいるとピアノが聞きたくなる本だ。ピアノの弾ける人なら演奏したくなるのではないだろうか。私は読み終わって、まず内田光子の演奏するドビュッシーエチュードを聞いた。