fとAI

ChatGPTなどの言語AI、LLMが機能向上して、多くの人が日々使えるようになった。莫大な計算機パワーを注ぎ込んでスケールアップしたことで性能が大幅に向上した。一方、そのおかげで、逆に何が言語AIにはできないか、少なくともできていないかが見えてきた。これはAI研究の歴史で過去何度も繰り返してきたことだ。これに対し、いまのAIに足りないのは、身体性、つまり体、ボディー、感覚器だ、という人がいる。そこでフィジカルAI、ロボットやその他のセンサー、マニピュレータを備えれば、次のステージに行ける、という主張がある。たしかに、いまのAIには、身体を通じた経験が欠けている。よって、物理世界との接続が増えれば、いまのAIにはできない多くのことができるようになるだろう。

ただし、身体性が意味しているのは単に物理世界に接続している、ということではない。例えば、椅子に腰掛けて、くつろぐ。この時、椅子から与えられるサポート、表面の布の質感、対応して足腰の筋肉の弛緩、腰骨に伝わる力、は物理的な計測で把握できるだろう。ただし、「くつろぐ」は、そこに含まれていない。くつろぎは気持ちの問題で、主として脳内で反応が起きていることを意味する。もちろん表情や心拍、血圧など計測可能になりつつある情報から、多少は推定できるだろうが、ほとんどはブラックボックスである。

実は、深層学習などAI技術が、思ったほど実務に導入できないのにも類似の問題が横たわっている。AIが何等かの機能を学習するには、何を目指すべきか、何が答えなのか、という情報が必要だ。機械振動の良し悪しを判定する場合は、良い振動と、悪い振動を区別したデータが必要となる。こういったデータは実はなかなか得るのが難しい。単に振動データは得られるが、その価値判断は人間が行っていて、データ化されていない場合が多いためだ。

ただし、機器振動のように単純な判断であれば、人間が一つ一つ、良い悪いという情報を付加すれば良いので、まだハードルは低い。または劣化や損傷といった具体的な障害データがあれば、そこから予兆を推定できる。しかし、多くの実務での判断はケースバイケースで、無限に近い組み合わせの中での判断が求められるため、適切な価値判断のデータを作るのはとても難しい。

さて、ここで本題に入る。AIはfを認識できるだろうか。現状は困難だが、特定の世界軌道をモデリングすることは、いずれ可能になるだろう。そして、そこからの差異も、そして、その差異が、ある信念構造からは正しく、別の信念構造からは間違いである、とも判断できるだろう。つまり仮想偏移を認識できるAIは既に射程にある、と私は考える。ただ、そこからが問題だ。まず、単なるナンセンスとfの違いに苦労するだろう。fは本人が信じたい、信じざるを得ないと感じる特定の事象にのみ生じる。これはナンセンス俳句をAIが作れても、良作を作るのが難しいのと似ている。

そして、おそらくAIは、f+とf-の区別をするのに苦労するだろう。ここにも価値判断が含まれている。それも実に不安定かつパーソナルな価値判断である。安定した価値判断のデータを作るのはとても難しい。何しろ、本人ですらfに遭遇してはじめて、感じ取れるような感覚だからだ。f+は、「そうであったらいいな」と信じたくなる感覚、f-は逆に「そんなことがなければいい」という恐れの感覚に基づく。

なお誤解しないでもらいたいのは、AIには感情が無いからダメだ、と言っているわけではないことだ。感情に相当するモデリングを行うことは、データさえあれば可能だ、と私は考える。特に、広く人類に共通する感情のモデリングは射程内だと思う。ドラマや小説などといったデータが豊富にあるからだ。どういうストーリーテリングなら「全米が泣く」かは、恐らくモデリングできる。fが難しいのは、そういった広く共通する情動と異なり、繊細かつパーソナル、また極めて状況依存だからだ。

もう一歩進めてみよう。私たちは何故fを見つけることができるのか。それには、fを見出したいという能動性が重要な役割を果たしている。現実は変わらない、と頑固に考えている人には、決してfは見いだせないだろう。物語は絵空事だ、自分の世界認識には影響しない、そう考えていると見えないだろう。世界は人間が理解できるような信念構造では説明できない豊かな内実を持つ。矛盾するように見える世界の相がある。きっと、あるはずだ、あってほしいと願う心が、fを現出させる。これは単にAIが世界軌道を構成できて、予測との差異を検知できるだけでは乗り越えられないエリアだと考える。

fの現れを望むAIは現れるだろうか。

 

fの孤独性が対話を可能にする

ここまで議論してきた"f"は抽象的だが、できるだけ丁寧に構成したつもりだ。注意深く設計した理由は、特定の作品や経験の良し悪しの議論になるのを避けるためだ。

自分にとって印象的な経験について語る時、それは必ず「経験した時点の自分」という限られた条件に強く依存している。例えば、映画を見たとして「最高の作品、文句無しの傑作」とか、「問題外、二番煎じもいいとこ」などの発言がある。これらは、発言者の個人的なその時の事情を前提として、初めて意味を持つ。適用範囲の狭い言葉だ。もしかすると、2時間ずらして見たら、感想は逆になったかもしれない。腹の減り具合や、一緒に見た人、隣の席にいた別の客、などに影響される。たまたま、直前に見たYouTube動画に影響されているかもしれない。これが別の人物となれば、その受け取り方は大きく異なるだろう。

この当たり前のことが、評価社会、アテンション・エコノミーでは巧妙に隠され、まるで一般的な、公平な、有意な発言であるかのように扱われる。また、その個人の人格や評価眼、見識の高さに直結しているかのように錯覚される。ランキング、星評価、格付け、など、点数付けが当たり前になっている社会で、大手を振って、この錯覚がまかり通っている。一度発言されると、それは「誰が見ても」といった、あり得ない修飾子が勝手に挿入される。逆に「それはあなたの意見でしょう」と言われると、その通りなのに、まるで発言者個人の見識の低さを指摘したかのようなニュアンスを持つ。

これらは全て錯覚である。大勢が金を払ってでも見たい、読みたいと思う作品は「金」になる。だから、資本主義社会では、それが作品の価値と同一視される。これが、大勢の個人の評価を絶対視するという捻れに結びつく。

本来、他人の評価など関係ない。世の多くの人が酷評しようと、先生やプロが酷評しようと、同級生や友人が酷評しようと、家族や、恋人や、伴侶が酷評しようと、本人にとって「すばらしい」作品は、間違いなく素晴らしい。誰の評価を気にする必要もない。

私にとってfは、とても大事な経験、認知プロセス、情動である。それらは多数の物語や映画や、それ以外の多数の経験という事例を持つ。が、それらがfとなり得るのは、私の世界軌道を前提にした場合のみであって、別の人にはfではないかもしれない。そして、それで良い。おそらく、その別の人にとってもfがあり得る。私には全く理解できないかもしれないが、それで良い。

作品や経験の価値に対する絶対視を外れたところで、互いの世界軌道やfの違いを、対話によって知ることに私は興味を抱く。もちろん、同じ作品の同じ箇所にきわめて近しい感動を得る、その共有を否定するものでは無い。が、それは一種の幸せな勘違いなのだ、という少し冷めた視点を持っていても良いのではないか。人はナラティブに耽溺する。が、その耽溺は自分の心の中に大事に守っていれば良い。日本では思想信条の自由は憲法で保証されている。ただ、それは他人がどう考えるかには関係ない。

近しいfを異なる人格が得るという経験は、極めて稀な幸運といって良い事態だ。存分に味わえば良い。が、それはfの定義にも通じる、軌道をほんの少し並走して、仮想偏移を共有しただけだ。fの定義の慎重さは、そういったそれぞれの人の心の心棒、同時にそういった豊かな対話を生み出すための、仕掛けである。

 

すべてがfである

私達は、信じられる世界の端を歩いて生きている。おそらく間違いないだろうという世界のエッジである。それを私は世界軌道と呼んだ。道を歩くにしろ、自動車を運転するにしろ、食べ物を食べるにしろ、学校で学ぶにしろ、仕事でメールを書くにしろ。ただ、世界軌道は揺らぐ。なぜ揺らぐのか。それは未来は誰にも予想できないからだ。

私達は科学という新しい信念構造を身に着け、従来とは異なる世界像のエッジを歩いている。これは、科学が知られる前の、生物としての経験や、生活習慣、村の習俗といった世界像とは異なる面があるが、それでも一つの信念構造に過ぎない。歴史が示すように、私達は特定の世界像に強く縛られて、痛い目にあってきた。差別、諍い、戦争、など。いまも、その点で変わらない。

fは、この私達の弱さを補う要素として有用と考える。fは自己矛盾を抱えている。科学や歴史的知識からは、明らかにUnrealであると信じられるにも関わらず、手触りや感受性、また一貫性といった複数の要素からなる観点からは、Realとしか思えない事象がfである。この、個人の中にRealとUnrealが同居する事象fを持つ、ということが、世界を多層的に見る素養として機能する。

RealとUnrealをきれいに峻別できる、と信じる人々は多い。が、それは過去そうであったように排除の論理を生む。RealがUnrealに、UnrealがRealにひっくり返った時に、自己崩壊に陥る。fの非現実性を認めながら、現実性を強く感じている自分を認める、その姿勢の上に、倫理が生じうる。相対的な正義の折り合いをつける、という倫理が。

では、fは精神的な健全性を保つ防御策に過ぎないのか。特殊なfのみが、そういう構造を持つのか。いや、実は、そうではない。すべてがfであり、私達は常時、それに投機しているのだ。小さな博打から、大博打まで色々あるが、絶対に確実な根拠などない、そこに賭けている。それが生きるということではないか。fに身体を投げ込む、そうやってクオリアを最大化する。そういう経験を味わうための、お守りがfである。野の花の可憐さに涙する。神社の木漏れ日に感謝する。膝の上の猫と一体化する。指輪物語のサムの帰宅の言葉に頷く。そのどれもが私達の現実であり──すべてがfである。

fによる世界の回復

 

私達の頭は強固に一貫性を保とうとする。頑固に辻褄を合わせる。それは、実は、一貫性に合わない事象が始終発生しているからだ。差異が生成され続けているのが、本来の姿、雑音が除去される前の姿であり、揺らぎ続けている。だが、変わらないとみなすほうが生きるのに好都合なので、予測し得る物語を、ルールが支配する世界をこしらえて、そこに得られるピースをはめ込んで把握する。破綻するまで。

という前提からすれば、仮想偏移によるfの定義は、転倒させられるように思う。fは世界の実像を回復させることを思い出させるがゆえに、魅力を持ち、期待させるのではないか。脳が勝手にこしらえた、つまらない世界、代わり映えのしない物語は、拵え物にすぎないことを再認識させ、リアルに迫ろうとする方向性を、仮想偏移という形で提示し、体感させる。脳による一種のリスク回避行動ではないか。

妄想はfの極端な姿である。が、拵えものである世界の一貫性を崩壊させかねない、危険な偏移である。その危険な水際に近づくことで、例えばイノベーションが、例えば芸術が生まれる。危うい狂気の手前で。彼らにとってSoW (Sense of Wonder) と、妄想との境は無い。

これに対して、fは安全な嗜好という位置づけになる。遊戯の一種である。世界の真の姿を覗き込む遊びだ。世界軌道に厚みを加える「アソビ」でもある。高速道路で走り続ける車のハンドルを少し揺らしても、車は多少ゆらぎつつ、その高速移動を継続する。アソビを体感することで車を制御下に置くことができる。fは世界を走り続けるために必要な裕度である。

fの定義

Definition of "f"

fとその周辺を考えるために一つの大雑把な定義を与えてみる。

私たちの世界の認識は常識や科学といったものによって、ある境界のはっきりしない雲のようなものを形成しているとする。それは確率分布やゆらぎを持つ軌道のように、確信度の高い中心をめぐる認識の風景である。

それを世界軌道と呼ぶことにする。世界軌道の内側へは中心に近い程、常識としての度合、自明の度合、確信の度合が強くなり、外へ広がるにつれて不確かなあいまいな、よくわからない領域へと融けてゆく。

世界軌道は、それぞれの人にとって確定した周回軌道ではなく。時間的に、さまざまな周りの影響によってゆらいだり、それたりする、はなはだ不安定なものだ。人々はそれぞれの軌道に沿って、大きくは逸れる事なく走り続けている。

fに対してこの考察で与える定義は、「世界軌道に仮想偏移を与える事象」というものだ。仮想偏移とは、実際の偏移ではなくあくまでも仮想の偏移であり、多くの場合その瞬間の偏移認識の後は、偏移そのものがなかったかのように感じられるものだ。しかしたとえ仮想であろうとも、そして仮想であることが確かであるにもかかわらず偏移を起こさざるを得ないような事象、それをfとする。

世の中には仮想でなく、確定的な軌道偏移を起こす事象ももちろんある。一つは徐々に広がり行く軌道の場合だ。不分明な領域に向かって軌道を着々と伸ばしつつある場合、軌道は確実に外へと偏移するだろう。若年齢時には様々な事象が軌道の拡大をもたらす。また未知の領域へと足を踏み入れた場合には若年でなくとも確定的な偏移がもたらされる。

fのもたらすf感覚と近い感覚としてSense of Wonder(SoWと略)がある。ここではSoWは主にこれら確定的な軌道偏移を表すとする。

fとSoWを区別する最も大きな違いは、fがあくまで仮想的であるという点である。従って、若年齢時にfに出会う事は難しい。若年者は偏移を戻す力が小さいからだ。fは多く年長者の出会う事象である。しかしまたあまりに年長である場合には、もちろん個人差はあれ、fに出会う事は難しくなるだろう。

f+ と f-

ファンタジーとホラーはもともと同じゴシック・ロマンやドイツ・ロマンに原点を持つ。ゴシック・ロマンの方が時代的に少々古い。

先に定義したfには、偏移を起こす事象という定義はあったが、その偏移がいかなる情動を与えるか、どういった印象を喚起するかには触れていない。したがって、仮想偏移によって幸福な、豊かな、快を得ても、不幸な、暗い、不快を得てもfの定義には反しない。本稿では、これらの印象、情動を古典的な光と影の2つに分けることとする。

光には、生、暖かさ、安堵感、幸福感、開放感、明るさ、快適さ、心地よさ、すべすべ、ほわほわ、さらさら、ふわふわ、がある。影には、死、冷たさ、暗さ、不安感、不幸感、閉塞感、不快さ、じめじめ、べあべた、ぬるぬる、ゴツゴツがある。

そして、ここでは、光を与えるfをf+、影を与えるfをf-と定義する。

その上で、従来様々な定義が氾濫するファンタジーというジャンル概念を、f+の創造を目的としたジャンルとし、ホラーをf-の創造を目的としたジャンルと再定義する。この再定義は全くの恣意的な物だが、従来のファンタジー、ホラー概念とそれほど大きく乖離するものではない。

ただfの定義自体が、個人の世界認識に依存し、さらにf+, f-の峻別が、個人の感受性に依存するという点において、大変不安定な定義、または使いづらい定義となっていることは否めない。

またfの起こす偏移がある程度大きい場合は+, -の判別は容易だ。例えば死をもたらす恐怖は-であろうし、豊かな生の喜びは+であろう。ところがもともと仮想偏移であるという事から、多くの場合その偏移は小さい。小さいからこそ一瞬でも偏移が可能なのである。するとその偏移のもたらす印象自体も、時に不明瞭になる。そうすると不安なような楽しいような、といった曖昧な印象になりかねない。そのため、客観性が薄いという以上に、個人の中でも判定基準として用いづらいという問題がある。

それでもここで論じようとする嗜好を最も正確に表現できるのが、このf+-という概念だと考える。個人に依存するからこそ、個人の皮膚感覚に近い所まで説明できる。個人の曖昧さもそのまま反映されるので、曖昧である自分自身を説明できる。

さて、私がこれから深めたいと思う概念はf+である。喜びについて考える喜びを味わう事が目的である。しかしその場合でも常に仮面の裏側としてのf-があるのだという事は重要な鍵だろう。

fの外延について

fの外延について議論してみよう。

fの定義はあまりに架空的であるので、それのみからfという事象について考察する事は実は困難である。またもちろんfを味わう事も難しい。もしすでにfと同様の事象について別の名を与えている者が居れば、同じ事だと理解できる程度のものである。

まずfの定義は一般的であるので、特に対象の種別や、もちろんジャンルには関係がない。またfは具体的な物の場合もあれば、抽象的な記号や文章の場合もある。また静止しているとは限らず、運動がfである場合もある。

定義から自明な事だが、fであるか否かは個人差が大きい。あくまで基準は個人の世界軌道であるから、その軌道の形状や大きさ、密度などで同じ事象がfであったり、そうでなかったりする。したがって再現性が高くない。個人の心理状態に大きく影響を受け、時間的余裕や、当面の作業への集中度合いなどが関係する。

それでもなお、人間であるという共通性からか、同じ事象をfであると認識できる人はいる。fによって多くの人に共通して認識されるものから、特定の個人にしか認識できない物まである。

しかし認識自体は非常に明快であり、これはfかなぁ、fじゃないかなぁ、などと迷ったりは多くの場合しない。この辺りについても議論を深めてみたい。今度友人と語り合ってみよう。

現在の定義は非常に大雑把なので、これから議論を深めるに従って、より適切な定義が生まれる可能性もある。またそうであって欲しいと思っている。

先に曖昧さがない認識と書いたが、世の中にはfとf的なる事象というのがある。f的なる事象はどう転んでもやはりfではないが、fの面影を彷彿とさせる。世の中にはこのf的なる事象が多い。しかしfに出会うことは大変少ない。

fは元々はfantasyのfであった。しかしそこから発生したこの概念に、fantasyという言葉の持つ意味が重ならなくなってしまったために、新しい概念として定義した物である。fから想像される言葉としては、few, fig, fiddleなどがあり、いずれでも良いと考えている。

fantasyの中には確かにfがある。しかしその密度はどうも決して多くは無いようだ、というのが今の所の感想だ。また最近はfantasy集合の濃度がどんどん増えている為、さらにfの存在確率が低くなっているように感じる。

(26年前の文章を一部修正して掲載)