星ぼしの荒野から

J.ティプトリーJr
星ぼしの荒野から (ハヤカワ文庫SF)


ティプトリー晩年の短編集である。千歳烏山図書館で、文庫をパラパラとめくっていて、読むのをやめられなくなって借りた一冊。原題は"Out of the everywhere: and other extraordinary visions"である。副題にあるように、普通のレベルを越えた(extraordinary)ビジョンが次々と提示され、ページを繰る手を止めることができない。

上のような表紙なので、実は敬遠していたのだが、表紙とはまるで関係ないハイレベルな短編集だった(というと失礼か。この表紙だから好きという人もいるかもしれない)。ちなみに表紙は、どの短編と関係しているのだろう?どれにも関係ないように思うのだが。(しかし、帯の「愛と涙と感動の」ってのは何だ?そんな本じゃないぞ。)

ティプトリーの小説を読むと、「荒々しい知性」という形容が私の頭に浮かぶ。恐ろしく頭の切れる作家が描く、物理的(Physical)にも、精神的(Mental)にもハードな物語だ。この短編集も厳しい話、様々な災厄が描かれている。特に様々な形で現れる「差別をする者たち」の描写が鋭く、心がえぐられるようだ。中でも地球人の「男」は悲惨な描かれ方をしている。

また、そういった災厄の中で登場人物たちが持つ、切ないほどに強い精神が、キリッとした倫理性を感じさせる。この清々しく、美しいとすら言えるような「意思」の強さがティプトリー作品の魅力だろう。作品の多くは、人類に恨みでもあるのか、と思えるほどに残酷である。しかし残酷趣味ではなく、むき出しの世界が持つ素性としての残酷さに直面していると感じられる。わかりやすい悪者ではなく、世界そのものがメカニズムとして持つ残酷さを、ティプトリーは見過ごすことが無い。

ところでSF、特にニューウェーブ以降のSFは、小説の冒頭から意味の良くわからない描写をする。意味不明な用語をちりばめた断片的な会話や、普通の人間が行くことのない場所の描写などだ。しばらくSFを離れていると、これがけっこう敷居になる。私も最近はあまりSFを読まなくなっていて、多少苦手になっていたが、冒頭の「天国の門」は、気楽な落語のような話で、これが良い準備運動になった。次の「ビーバーの涙」も「おお、わが姉妹よ、...」も、感情を揺さぶられはするが、あまりSF臭くない話だ。

そして最初の衝撃がネビュラ賞を受賞した「ラセンウジバエ解決法」(The Screwfly Solution)である。地球外生命体が人類に施した、ある「解決法」がもたらす恐ろしい災厄をリアルに描く傑作だ。最初のあたりは離れて暮らす夫婦の手紙のやりとりで構成されていて、何が起こっているのか良くわからない、という敷居の高い描き方がされている。冒頭にこれが来ていたら、この短編集を読むのは止めていたかもしれない。しかし、この迫り来るリアルな印象をもたらすには、これ以外の方法はなかったろう。何が起こっているのかは、丁寧に伏線がはられているので、最初の1/3ぐらいで分かる。ただ、分かっていても惹き付ける力が減じることはない。途中、何度かゾクッとするような描写がある。

その後「時分割の天使」 「われら<夢>を盗みし者」で、さらに一歩踏み込んだレベルで準備運動をした後にやってくるのが、「スロー・ミュージック」Slow Musicである。これも何とも形容しがたい見事な短編だ。80ページほどあるから中編と言ってもいいかもしれない。人類がいなくなった地球に残った若い男女が、河と呼ばれる人類が遡って行った場所に向かう話だ。スローライフ風の少女と、都市で暮らしていた少年、二人の描き方の対比が印象的だ。SFでは、現代人とは考え方の異なる未来人を描くことが多いが、下手をすると現代人の価値観を引きずった似非未来人になりがちである。これに対して、ティプトリーは、我々と価値観の異なるさまざまなキャラクターを見事に描く。ティプトリー自身が、この地球で周囲の人類に対し、宇宙人のような違和感を持っていたのではなかろうか。

最後に『ソラリス』を彷彿とさせる「汚れなき戯れ」という切れの良いショートショートを緩衝剤として、「星ぼしの荒野から」 Out of the Everywhereと、「たおやかな狂える手に」 With Delicate Mad Handsという二つの傑作で締めくくられている。たった200ページほどの中に、どれほど広がりのあるビジョンを頭に叩き込まれたろうか。

こうやって振り返ると、この短編集自体の構成が実に良く出来ていることがわかる。読んでいる間は気付かなかったが。やはりティプトリーは凄かったと実感させてくれる本だった。

航路

コニー・ウィリス
航路(上)航路(下)


ジャンルはSFだろうが、ミステリーと言ってもいいかもしれない。SF味は薄い。上下巻で1300ページもあるが、会話が主体で、ドラマのERのように話がどんどん展開するので、苦なく読める。色々な意味で面白い読ませる小説だ。読み応えのある面白いSFミステリーが読みたければ、文句無く薦めることができる。ただ「泣けた」という人が多数いるようだが、私の涙腺はまったく刺激しなかった。

コリン・ウィルソンの『賢者の石』 を思い出しながら読んだ。『賢者の石』にはボルヘスへの献辞がある。そう迷宮だ。心の中=迷宮というメタファーの物語。そして「日常の死」の物語。

主人公は女性の医学研究者である。彼女は、心停止などを経験した人へのインタビューをしている。NDE(臨死体験)を科学的に解明することが目的だ。そこへ、リアルタイムに脳の活性度合いを計測できる装置を使って、同じくNDEを研究しようとする男性から、共同研究の依頼があり、二人は一緒に研究を始める。

色々な要素がたくさん詰め込まれた遊園地のような豪華な小説だ。それでいて、みっしりそれらが有機的な連携をしていて、相乗効果を上げている。コニー・ウィリスは大した語り部だと思う。

まずは、この医学研究者たちの描写が丁寧で、とても現実味がある。NDEなどという怪しい分野で科学研究をしようとする難しさ、予算獲得、思うようにならないインタビュー、テープ起こしの済んでいない大量の録音テープ、集まらない被験者、焦りと、取り付かれたような没頭、どうも他人事でない。

舞台は私立の巨大病院で、物語の間中、改装工事が行われている。複数の建物から構成されており、途中にペンキ塗り立てや、通行止めが多数ある、酷い迷路になっている。この迷路の設定と描写が面白い。登場人物たちは、この迷路を走り回る。たしかに夢でこういうのが良くある。へとへとになる。

NDEの描写もイメージ豊かで見事だ。ちなみに、天使が出てきたり、故人が迎えにくるといった、いわゆる臨死体験ではない。彼らは、こういったNDEはほとんどが後からの作話である、という前提で研究を進めている。さて、二転三転する仮説に翻弄され、結論はどうなるのか。それは言えないね。もちろん。

また、作品を埋め尽くす登場人物たちの台詞、会話が面白い。ステロタイプのようでいて、その微妙な心の動きを上手くすくい上げている。どの人物も癖があり単純に好きにはなれないが、私はブライアリー先生が一番印象に残った。ちなみに、ネットにはブライアリー英文学集成
http://alisato.web2.jp/book/briary/index.htm
というホームページがあり、この作品に引用されているリファレンスが整理されている。英文学をやる人には、これも楽しみの一つだろう。

さて、ちょっと横道にそれる。先週、私の実家のある田舎町で研究会があったため、実家に帰った。その時に、NHKで放映された山田洋次の『学校IV 15歳』という映画を両親と見た。ちなみに実家のテレビは40インチのプラズマなので、狭い茶の間には邪魔っけで、ずいぶん熱を出すのだが、さすがに映画を見るには最高である。

『学校IV』は、15歳の少年が家出をして、いろいろな人に出会う、とても良くできたロードムービーで、親と一緒に映画を見るのも悪くないな、と思った。その映画の中に、少年が不注意から遭難して、自分の「死」を身近に感じるシーンが出てくる。

多くの人間は、毎日の生活をこなして、一年一年と過ぎてゆく。そうして、簡単には死ねず、老人になってゆくわけだが、そうやって生きていると、安全な道路をゆっくりとしたスピードで走っている自動車のように、危険を実感できなくなってくる。生活習慣病や、腰痛のような緩慢な老化がゆっくりとした歩調で迫ってくるだけだ。すると不思議なことに、生きているということ自体が分からなくなってくる。

少年の頃、私は、そして多くの少年も、自分が走っている道路がどういうところなのか、わからなかった。一度も急ハンドルを切ったことなどないからだ。ところがふとした時、少年達は不注意や、無茶をして、路肩に突っ込んで行く。時々そのまま、あの世に行く者もいるが、多くはその手前で踏みとどまり、路肩から死の淵を覗き込んで、恐怖を感じる。そこではじめて、自分が走っている道の輪郭が見え、意外と道が狭く、前を向いて生きるしかないことを知る。

私が考える日常の死とは、こういうものだ。『航路』では、たくさんのNDEが描かれているが、私のこの感覚との齟齬がなく、その意味で信頼して読める内容である。そして、たぶんこれが『航路』というフィクションの心棒だと私は思う。

パリ左岸のピアノ工房

T.E. カーハート (著), Thad E. Carhart (原著), 村松 潔 (翻訳)
パリ左岸のピアノ工房 (新潮クレスト・ブックス)


「面白い本」という言い方には、いろいろなニュアンスが含まれている。それは「おいしい料理」にもさまざまな言い含みがあるのと同じだ。まず、夢中になって楽しめる小説や、ドキドキさせてくれる小説といった、テイストの違いがある。また、滲みてくるような味わい、鮮烈なクリスタルガラスのような印象といった、伝わり方の違いもある。そして、その場かぎりの楽しみではなく、愛着を感じ、大事にしたくなって、あまり大きな声で面白いと言えなくなってしまうような、「面白い本」に出会うことがある。本棚に納めておくと、自分自身の一部になったかのように感じる本だ。

私がたくさんの本を読むのは、そういう本に出会いたいがために読んでいる、という面が多分にある。私という個人は、この肉体だけでなく、これまで食べた物、暮らして来た場所、家族や友人達、そして、それらの本から構成されている。本を読むというのは、私を作り上げる行為だ。

『パリ左岸のピアノ工房』(The Piano Shop on the Left Bank)はすでに、私のそういう一部である。

主人公はアメリカ人、語り手でもある。彼は、あるピアノ工房に出会い、そこを通じて様々なピアノ達や、人物と出会う。パリの静かな住宅地の一角に、素っ気ない看板の、人気の無い小さな店がある。その小さな入り口を入ると、奥には、外からの光が降り注ぐ広い工房があり、年代物のピアノが何十台も修理を待っている。

まるでおとぎ話のような設定だが、実はこの話は著者のカーハートの体験したノンフィクションなのだそうだ。パリというのはなんとまぁ魅力的な街なのだろう。

ピアノは大掛かりで、また高価な楽器だ。なのに、私たちにやたら身近な存在である。小さな子供の多くは、特に女の子はピアノを習う。学校には必ずピアノがあって、ピアノのある家も少なくなく、昼間に住宅地を歩くと、どこからかピアノの練習曲が聞こえてくる。

私の妹もピアノをかなり長期間習っていた。彼女が家にあるアップライトで練習しているのを、横になって本を読みながら聞いていたのを、ふと思い出すことがある。練習は失敗を繰り返して上手になってゆくので、同じフレーズを何度も聞いていた記憶ばかりが残っている。時々調律士がやってきて、和音を響かせていたのも憶えている。娘も中学まではピアノをやっていた。日本の中流家庭で育った多くの人は、同じような経験と記憶を持っているだろう。のだめを読んで共感する所があるのも、そういう素地が効いているのではないかと思っている。これを読むと、アメリカ人もフランス人も、みなけっこう共通した経験と印象を持っていることを知る。

本の最初のあたりで、主人公は、シュティンゲルというメーカーのベビー・グランドを、ピアノ工房から手に入れる。ピアノ工房の若い職人であるリュックが言う。

あんたはピアノといっしょに暮らすことになるし、ピアノのほうもあんたと一緒に暮らすことになる。ピアノは大きいから、無視することはできない。家族の一員のようなものだ。

ピアノは、そもそも形が美しく、もちろん魅力的な音がする。楽器でありながら、複雑な機構を持つ、機械の一種である。多くの憧れをかきたてる一方、大きく重いので邪魔でもある。また木でできていて、複雑な機構になっているので、メンテナンスにもかなり手間とお金がかかる。ピアノを自在に弾きこなすには、相当の努力と時間が必要で、ピアノがひける人への憧れもある。そういう、様々な思いがピアノには重なっている。

本の中には、いろいろなピアノが登場する。古いピアノ、新しいピアノ、フランスのピアノ、イギリスのピアノ、ドイツのピアノ、日本のピアノ。くたびれている小さなエラール、ローズウッドのスタインウェイ、ベヒシュタインのグランドピアノ、ファツィオーリ。一つ一つが個性と過去を背負って存在しており、登場人物たちと、まったく等価な重みをもったキャラクターとして描かれている。

どの登場人物も魅力的だが、中でも、すごく耳のいい酔っぱらいの調律士と、ピアノを背負って階段を上る運送人、そしてレバノンから亡命して来た女性ピアノ教師が印象的だ。

本の中では、ピアノがどういう楽器で、どのように変化してきたのかが丁寧に解説されていて、多くの発見があった。例えば、ピアノは打楽器の一種で、歌うのに向いていない、というのがある。私もおぼろげにそう思っていたのだが。ピアノは、キーを押せば音が出るという一種の機械なので、揺らぎやニュアンスといったものが出しにくい楽器である。もちろんペダルや、押し方、押すスピードや加速度で変わりはするが、その変化は、弦楽器や、さらには人間の歌声とは比べ物にならない、小さなゆらぎでしかない。ピアノを習ったことがある人なら当然知っているだろうが、ピアノにはこの弱点をカバーするさまざまな演奏法が開発されている。多くの人は、そういった演奏法を贅沢にちりばめたプロの演奏をメディアで聞いて育っているため、まるでピアノが流麗な楽器であるかのような錯覚を持っていはしないだろうか。

ショパンの音楽は、他のどんな作曲家の作品にも増して、ピアノという楽器の中核にあるパラドックス -- どうやって打弦楽器を歌わせるか -- に真っ向から挑んでいる。(p.121)

私は、ピアノで奏でられる演奏が美しいのは、アールデコや、モダニズム建築に類する、機械的な、または抽象的な側面があるからではないかと思っている。人間や生命とは、そもそもの成り立ちから違う、宇宙人のような存在が奏でる流麗な響きが、いいようのない美しさを感じさせるのではないかと思っている。

バルトークのピアノ協奏曲などを聞くと、ロマン派の音楽では美しく整っていた、その仮面がはぎ取られて、荒々しい打楽器として素顔が現れるのに、驚きと魅力を感じる。

読んでいるとピアノが聞きたくなる本だ。ピアノの弾ける人なら演奏したくなるのではないだろうか。私は読み終わって、まず内田光子の演奏するドビュッシーエチュードを聞いた。

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念

チャールズ サイフェ (著), 林 大 (翻訳)
異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


最近、数学読み物にはまっていて、色んな本を読んでいる。この本は、ゼロの登場から現代に至るまでの、ゼロのさまざまな影響をスリリングに描いている。

「ゼロは魚雷のように米国の軍艦ヨークタウンを襲った」という一文から始まる。1997年のことだ。原因は"division by zero"のバグが制御システムにあったためだ。ゼロは数学の始まりから、現代にいたるまで、さまざまな場所で、破壊的な影響力を及ぼして来ている。また及ぼし続けている。たかがゼロなのに。

途中に簡単な数式がいくつか出て来るが、いずれも高校レベルなので、数学の専門知識は不要だ。

ゼロと裏表の関係にある無限、ゼロと無限に支えられている微分積分、物理学におけるゼロの役割など、教科書ではさらりと触れられている重要な部分を例を読みながら楽しく理解できる。高校生なら読めると思う。娘に勧めてみようかな。


本書の付録にある、ちょっと楽しい例を以下に示そう。

aとbは1であるとする。
よって bb = ab ...(1)
また aa = aa ...(2)
式2から式1を引くと、
aa - bb = aa - ab ...(3)
である。因数分解すると、
(a + b)(a - b) = a(a - b) ...(4)
両辺を (a - b)で割ると、
a + b = a ...(5)
両辺からaを引くと、
b = 0 ... (6)
最初にbは1としたので、
1 = 0

初心者プログラマがけっこうやっちゃうんだよね。

本を読む本

M.J.アドラー、C.V.ドーレン著、外山滋比古、槇未知子訳
本を読む本 (講談社学術文庫)


原書は、“How to Read a Book” (1940年出版)、訳出は1978年だ。

本の読み方を指南している。それも、「読むに値する良書を、知的かつ積極的に読む規則を述べた」本だ。フィクションの読み方も第三部で触れらているが、ほとんどはノンフィクション、その中でも、歯ごたえのある書籍を読み解く技術に、多くのページが割かれている。古い本だが、訳には全く古さを感じない。また日本語としても一流だ。次から次に、読書の本質についての名言が現れる。

曰く、


読むこと、聞くことはまったく受動的だと思っている人が少なくない。(中略)相手から積極的に送られてくる情報をただ受けとればよいと考えるところが、まちがいである。(中略)読み手や聞き手は、むしろ野球のキャッチャーに似た役割をもっている。

さらに曰く、


読書技術には、『手助けなしの発見』のために必要な技術が、すべて含まれているのである。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、そして分析や思考によって鍛えられた知性

なお、この本自体、文章の読みやすさに反して、必ずしも読みやすい本ではない。それは、この本自体が「知的かつ積極的に読む」ことを求めている本だからだ。

日本は識字率が高い国である。そのため、本なんて誰にでも読める、読み方なんて教わらなくても大丈夫、という認識が、広く共有されているように思う。しかし、少なくとも私は本の読み方を学校で教わったことがない。外山先生が訳者あとがきで書いているように、昔の日本人の本の読み方は求道的、人生的で、我慢して読め、という精神力の問題だった。これでは読書の「技術」は問題にならない。

しかし、日本人の読書にも、実際的で、知的な読書に重点が置かれるように変わって来た。これだけメディアが発達し、ネットに情報があふれている世の中だが、ちゃんと分析的に読める技術の重要性は増すばかりだ。では、私の学生時代と違い、娘たちが受けている国語教育では、実際的で、知的な読書法を教えているか、というと、残念ながら、まだそうではないだ。

著者のアドラーは、人間の精神が持つ一つの不思議なはたらき、として、「どこまでも成長しつづけること」と言っている。知的な成長をすると、世界が開けて見え、自分が一つ上の階層に登ったような気になる。囚われていた蒙昧から抜け出せる心地よさを味わえる。これから、また、どんな面白い本に出会えるのだろうか。楽しみだ。

なお第三部のフィクションを扱った章は、小説のレビューを書く方法として、参考になると思った。うまく要約、翻案できれば通信文として流したいと思う。


2009/02追記
この本は、目的的な読み方の基本を説いているのだが、あえて素読する良さというのもあるだろうな。または良くわからないながらも、とりあえず読み終わってみるというのも。理解できないところや読めない漢字は読み飛ばしながら。ただ、この本に書かれているようなボールを受け取る能力を磨くことの重要性は変わらずあるとも思う。

ところで本を読まないと、ボールの受け方を忘れてしまう。だから軽いものでも良いので、キャッチボールを続けるべきだろうと思う。時々、しっかりと投げ込んでもらう。変化球をもらってみる。この本が取り上げるのは、いわば思いっきり体重の乗った重い豪速球である。そんな球ががっしりと取れれば、それは気持ちいいだろうね。

『トランスフォーマー』マイケル・ベイ

トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]


TUTAYADISCASには、インターネットを使った映像配信サービス(Windowsのみ対応)があります。物は試しと以前から見たかった『トランスフォーマー』(マイケル・ベイ, 2007年)を525円で見てみました。2Mbpsの映像がどの程度なのか、という興味もありましたが、いやぁ、これはすごい。1280X800のMacBookの画面一杯に迫力ある映像をスムーズに視聴できました。30インチのシネマディスプレイで見たいなぁ。

さて肝心の映画『トランスフォーマー』ですが、十分に楽しめました。2時間30分もある長い映画ですが、長さは感じませんね。次から次に畳み掛けるようにシーンが展開して行きます。見終わった後は心地よい疲労を感じるほど。

日本のロボットアニメ、例えばゲッターロボとか、ゴッドマーズとか、または特撮戦隊物を、思いっきりお金をかけて映像化すると、こういう感じになるんでしょう。日本アニメの影響が濃厚ですが、映像のクオリティや、脚本の丁寧な仕事が、さすがハリウッドだと感心しました。ストーリーはかなり強引で、細かな辻褄は全然合っていないのですが、いいんです。そんなことは。

一応SFかな。宇宙から金属生命体なるエイリアンが攻めて来るという内容です。キューブというエネルギーの源のようなものが、宇宙をさすらって地球に到着し、それを巡って悪いロボットと、良いロボットが戦闘をする映画です。

コミカルで笑えるシーンが沢山あって、分かりやすい青春ロマンスも入って、娯楽作品としてとても豪華です。何も考えず、うぉー、ごー、がー、すげー、とか言って楽しむ映画でした。これは、お気に入りのSF映画に追加しようっと。

SF映画マイベスト

夕食時に、SF映画って面白いよねという話を、かなり一方的に家族に話した。いろいろ作品を挙げつらっている内に、そういえば自分はSF映画が好きなんだな、と改めて思い至った。その勢いで、SF映画マイベスト、というリスト(後述)を作ってみた。みなさんの好きな映画はあるだろうか?

さらに各タイトルに、「怖い度」「マニア度」「エッチ度」「暴力度」「お笑い度」を5段階で付けてみた。

その結果、SF映画とは「怖くて、マニアっぽくて、あまりエッチではなく、時々暴力的で、お笑いが無い」映画であることがわかった。あまり友達にしたくないような (^ ^;)

各基準が「5」のリストを以下に示す。


怖い度5の映画:

猿の惑星
『時計仕掛けのオレンジ』
『ウエストワールド』
『ソイレント・グリーン』
未来惑星ザルドス
『エイリアン』
『CUBE』

マニア度5の映画:

『時計仕掛けのオレンジ』
未来惑星ザルドス
未来世紀ブラジル
『ストーカー』
伝説巨人イデオン 発動編』
イノセンス
博士の異常な愛情

エッチ度5の映画:該当無し

暴力度5の映画:

『時計仕掛けのオレンジ』
『エイリアン』
『マーズ・アタック!』
『CUBE』
ロボコップ
スターシップ・トゥルーパーズ

お笑い度5の映画:

ギャラクシー・クエスト

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私のSF映画マイベスト

タイトル 監督 製作年
ゴジラ本多猪四郎 1954
妖星ゴラス本多猪四郎 1962
博士の異常な愛情スタンリー・キューブリック 1964
華氏451フランソワ・トリュフォー 1966
2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリック 1968
猿の惑星フランクリン・J・シャフナー 1968
アンドロメダ...』 ロバート・ワイズ 1971
『時計仕掛けのオレンジ』 スタンリー・キューブリック 1971
惑星ソラリスアンドレイ・タルコフスキー 1972
サイレント・ランニングダグラス・トランブル 1972
『ウエストワールド』 マイケル・クライトン 1973
『ソイレント・グリーン』 リチャード・フライシャー 1973
未来惑星ザルドスジョン・ブアマン 1974
未知との遭遇スティーブン・スピルバーグ 1977
スター・ウォーズジョージ・ルーカス 1977
ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)』 吉川惣司 1978
『エイリアン』 リドリー・スコット 1979
銀河鉄道999』 りんたろう 1979
『ストーカー』 アンドレイ・タルコフスキー 1979
E.T.スティーブン・スピルバーグ 1982
ブレードランナーリドリー・スコット 1982
伝説巨人イデオン 発動編』 富野喜幸 1982
『ブレインストーム』 ダグラス・トランブル 1983
時をかける少女大林宣彦 1983
ターミネータージェームズ・キャメロン 1984
デューン/砂の惑星デビッド・リンチ 1984
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』 ロバート・ゼメキス 1985
未来世紀ブラジルテリー・ギリアム 1985
王立宇宙軍 オネアミスの翼山賀博之 1987
ロボコップポール・バーホーベン 1987
機動警察パトレイバー2 the Movie押井守 1993
『MEMORIES』 大友克洋ら 1995
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊押井守 1995
『12モンキーズテリー・ギリアム 1995
『マーズ・アタック!』 ティム・バートン 1996
インデペンデンス・デイローランド・エメリッヒ 1996
ミクロの決死圏リチャード・フライシャー 1996
フィフス・エレメントリュックベッソン 1997
『CUBE』 ヴィンチェンゾ・ナタリ 1997
スターシップ・トゥルーパーズポール・バーホーベン 1997
ガタカアンドリュー・ニコル 1997
ギャラクシー・クエスト』 ディーン・パリソット 1999
マトリックスウォシャウスキー兄弟 1999
アイアン・ジャイアントブラッド・バード 2000
サトラレ本広克行 2001
『マイノリティーリポート』 スティーブン・スピルバーグ 2002
イノセンス押井守 2004
『銀河ヒッチハイクガイド』 ガース・ジェニングス 2005
時をかける少女細田守 2006