読書感想文「実力も運のうち」 人としての尊厳を踏みつける能力主義

読書感想文

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学んだこと:

  • 私自身がドグマにしばられていたことに気づいた。
  • 学歴偏重が問題なのは分かっていたが、それは能力を適切にあらわしていないからだ、と思っていた。
  • そもそも能力や功績で、人の扱いを変えることがもたらす「害」が理解できていなかった。
  • 傲慢だったし、その傲慢さに気づいていなかった。

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考えたこと:
 能力、というより、解説にあったように、その人の貢献(Merit)、社会への貢献に応じて、報酬など処遇が変わること自体が悪いわけではない。しかし、貢献の多寡が、その人の「人としての」価値に直結することが、社会に悪影響を及ぼす。この問題は積極的に対処すべきである、ということだ。貢献の多い人に価値を認めることは良い。しかし、この考えを推し進めると、貢献の少ない人には価値が無い、という考えに行きつく。これはまずい、というのがサンデルの主張だ。

 妻が言っていたが、人の価値基準が単純化しすぎているのがダメなのだ、という風にも思う。他の尺度、自分の価値を感じられる別の場所が必要ということだ。

 適切な能力のある人に、適切な役割を果たしてもらいたい、と思う。それは良い。医療行為は医者にやってもらいたい。ヤブ医者ではなく。裁判官には法律に詳しい人がなってもらいたい。

 しかし、必要とされる仕事が減っていっている。海の向こうの労働者に仕事が移っている。コンピュータの自動処理に、ATMや自動レジスターなどのロボットに仕事が移っている。それにより、どの仕事にも向かない人が増えている。そうすると、誰でもできる、ロボットにもできる仕事の価値が下がり、報酬が下がる。市場の原理で。それも生活が困難なほどに下がる。今の世の中、ギャンブルや、サラ金、詐欺が多数あり、それらに騙されたり、嵌ったりする人も多い。そうすると、さらに生活が困窮する。この傾向自体は一般的だ。だから「誰でも」明日は我が身である。いまは裕福な生活をしている人も、ふとした拍子に、そういう劣悪な生活状況に陥る可能性がある。

 しかし、この本が問題にしているのはそこに留まらない。これは格差拡大という良く議論される問題だが、サンデルはさらに根深い問題を指摘している。それが、能力主義が信じられている社会で無能とされることは、「人としての価値が低い」と等しい、という点だ。人間としての尊厳を失うという問題である。

 人は貧乏であっても、尊厳が保たれていれば生きていけるが、尊厳が踏みつけられると生きていけない。現代社会では、そういう事態がそこいら中で起きている。

 この本には書かれていないが、尊厳、ブライド、自尊心、人として認められる、蔑まれない、ということは、集団で生きる人間にとって、極めて根源的な欲求だと、私は考える。マズローの「社会的欲求」「承認欲求」に相当する。

 自然番組、動物のドキュメンタリーを見ていると、集団で生活する動物で、仲間から低位に位置づけられると、餌にありつけなくなったり、集団から追い出されたりして、生命の危機に陥る例が良く登場する。人間の自尊心は、原理的には、これら動物と同じであり、生き延びることへの危機感に根があると思う。

 だから、自尊心やプライドは大人にしか無いわけではなく、小さな子供でも、要介護の老人にも等しくある。誰もが、人として等しく尊重されることを望んでいる。

 本では、能力主義自体はそれほど古い歴史が無いこと、階級社会が否定され、能力主義が台頭して、それほど時間が立っていないことが述べられている。しかし、いまや能力主義は、大統領が演説で繰り返すほどに、現代の常識となった。その悪影響が私達の社会を蝕んでいる。

 どうすれば良いのか。実力は運なのだと、多くの人に納得してもらうのは難しいだろうか。別の尺度でちゃんと「人として認めるのが当然」という社会になればと思う。能力が高いのは、それは良かったね、と。運が良いね、と。ただ、それだけだ。学歴が高いのは、それも良かったね。頑張ったね。ついてるね、と。まぁ、でもそれだけだ。高い能力を持っているね。助かるよ。でも、それは人としての価値とは直接は関係ない、という。役立つのは素晴らしいことだ。が、役立たなくても、人として価値はある。人であるというだけで。そこに生きていてくれる、というだけで価値がある。

 家族に関しては、私達は素直にこの考えに頷ける。娘は生きていてくれるだけで十分にありがたい。欲を言えば健康で、さらに欲を言えば楽しく過ごしてくれればと思う。ただ、彼女がどういう能力であろうと、どういう功績であろうと関係なく、尊い。彼女の人としての尊厳を守りたいと思う。

 競争社会でサバイバルすることと、人を人として認めることは両立できるはずだ。そのために私は何ができるだろうか。

言い訳と先読み -考えるな感じろ-

言い訳と先読み -考えるな感じろ-

 

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スポーツや格闘技を扱ったマンガやドラマで、「考えるな感じろ」という言葉が時々出てくる。例えば、松本大洋の「ピンポン」で、ペコに対し、オババが「頭使うな」と言ったのを思い出す。

 

頭とか、考えるとかいうのは、大脳皮質、意識、に関わる脳活動である。

 

「脳の表面部分は大脳皮質と呼ばれ、前頭葉頭頂葉・側頭葉・後頭葉と左脳、右脳の各部に分類することができます。左脳、右脳は脳梁でつながっています。人間の思考などの中枢。大脳皮質の内側は白質と呼ばれ、大脳皮質の神経と他の神経をつないでいます。人間の知覚、随意運動、思考、推理、記憶など、高次機能を司る人間が生きていくうえで必要な事柄の司令塔。脳部位によってそれぞれ請け負っている役割が異なっています。」

from「大脳皮質のおはなし」https://akira3132.info/cerebral_cortex.html

 

 大脳皮質の機能は、「言い訳」と「先読み」と要約することができる。

  言い訳とは、外界と内界(情動や身体)の情報に対して、なるべく矛盾の無い世界観を構築することを言う。知覚、記憶、思考が関連している。

  先読みとは、それらの世界観を踏み台に、時間的に先の予想を立てて、行動を計画することを言う。思考、推理、随意運動が関連している。

  人間以外の小さな脳を持つ生物は、これら大脳皮質が小さい。とはいえ、特段生きることに不自由している訳ではない。つまりは、後付けで発達した特殊な脳だということだ。

 

 AI研究の言葉で言うと、言い訳は、モデリングと言える。慣れとか、会得といったレベルの感覚的モデリングから、法則の発見と数式による記述といったレベルの記号的モデリングまで、実に多様かつ複雑なモデリングを人間は行える。

  この、一貫性を保とうとする力の強さは信じられないほどだ。少々の矛盾はねじ伏せて、あたかも継ぎ目の無い、一貫した世界が自分の周りにあるかのように感じる。

  一方で、先読みは、予測、仮説構築、といった言い方ができる。右にハンドルを切れば、車が右に曲がるといった確実な未来は、常に予測されている。さらに、新しい法律を作ると、社会がどう変わるだろうか、といった複雑な候補検討も一種の先読みである。これも言語や数式を使えることで、かなり先の未来予測、大幅に多様な仮説構築、が可能となった。

 

 ところが、自分自身の行動推進という、生活していく上で重要な活動に関して言うと、これら大脳皮質の能力が、時に邪魔をする。身動きが取れなくなる。

  言い訳と先読みが、うまく連携できている範囲の活動に関しては、効果的に機能するのだが、そこから外れる要素が入ってきた時や、新しい要素を入れなければならない時に、ある種のトラップに入り込んでしまう。

 

(a) 例えば、今まであまりやったことの無い行動に、踏み出す必要が生じた時。(例:チャレンジ)
(b) 例えば、気持ちをかき乱す誘惑や邪魔が多数入る状況で、一つのことに集中する必要が生じた時。(例:片づけ)
(c) 例えば、ガードしていない所にパンチが入るような外乱が来た時。(例:本当のことを言われた)
(d) 例えば、知らず知らずやってしまう習慣行為が活動を支配していて、大事だと思っているのに先延ばししてしまうような時。(例:スマホ使いすぎて夜更かし)

 

こういった、私たちが現代社会で始終遭遇する状況に対し、言い訳と先読みが悪い影響を与える。

 

上記aだと、先読みが効かないため、リスクを過大に評価して、怖気づき、他にやることがたくさんある、と言い訳をし、自分の世界の一貫性に固執するようになる。たしかに、ジャングルの中で危険地帯に入ったり、見慣れない食べ物に手を出すことは避けないと、死に近づく。が、概ね安全で、セーフティーネットもあるような現代社会の状況でも、同じ反応をしがちである。

 

bだと、誘惑や邪魔に、いちいち反応して、それぞれに言い訳と先読みを行ってしまい、脳をそれらの活動で支配させて、事前に計画した行動の優先度を容易に下げてしまう。先読みにとっては短時間の効能や被害ほど重要であり、一週間後や、一か月後といった先の結果の優先度は容易に下がり得る。いま生き延びることが大事という基本メカニズムが支配する。

 

cは、パンチによって、言い訳が効かない状態に陥るため、無理やりに脳内モデルに合わせて世界を歪ませてしまう。聞こえなくなる、見えなくなる。パンチをくらった痛みを忘れようとすらする。言い訳をムリに拵える。パンチから、まず回避する。遠ざける。自分の世界の再構築には大きなリスクと労力が必要である。再構築の経験が無いと、単にリスクが大きいだけだと逃げる。

 

dは、言い訳と予測がループを描いている心地よい世界から抜け出せなくなる。時々、こんなことではと思いはするが(この脳のリスク回避機能はすごい)、すぐにループに戻ってしまう。小さな予測と報酬の罠に囚われ続ける。

 

これらの罠に入らないようにするには、より具体的・感覚的なレベルの対策と、より抽象的・メタ認知的なレベルの対策との両方が必要である。

 

前者は「感じろ」とか「いまに集中しろ」であり、

後者は「自分を外側から観察しろ」とか「書き出せ」である。

 

これら対策については多数の書籍がある。また、人によって具体的なメソッドは違うだろう。

 

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以上の考察は、ライフハックの一種として整理したもので、一般性や根拠は薄弱である。


以上

星ぼしの荒野から

J.ティプトリーJr
星ぼしの荒野から (ハヤカワ文庫SF)


ティプトリー晩年の短編集である。千歳烏山図書館で、文庫をパラパラとめくっていて、読むのをやめられなくなって借りた一冊。原題は"Out of the everywhere: and other extraordinary visions"である。副題にあるように、普通のレベルを越えた(extraordinary)ビジョンが次々と提示され、ページを繰る手を止めることができない。

上のような表紙なので、実は敬遠していたのだが、表紙とはまるで関係ないハイレベルな短編集だった(というと失礼か。この表紙だから好きという人もいるかもしれない)。ちなみに表紙は、どの短編と関係しているのだろう?どれにも関係ないように思うのだが。(しかし、帯の「愛と涙と感動の」ってのは何だ?そんな本じゃないぞ。)

ティプトリーの小説を読むと、「荒々しい知性」という形容が私の頭に浮かぶ。恐ろしく頭の切れる作家が描く、物理的(Physical)にも、精神的(Mental)にもハードな物語だ。この短編集も厳しい話、様々な災厄が描かれている。特に様々な形で現れる「差別をする者たち」の描写が鋭く、心がえぐられるようだ。中でも地球人の「男」は悲惨な描かれ方をしている。

また、そういった災厄の中で登場人物たちが持つ、切ないほどに強い精神が、キリッとした倫理性を感じさせる。この清々しく、美しいとすら言えるような「意思」の強さがティプトリー作品の魅力だろう。作品の多くは、人類に恨みでもあるのか、と思えるほどに残酷である。しかし残酷趣味ではなく、むき出しの世界が持つ素性としての残酷さに直面していると感じられる。わかりやすい悪者ではなく、世界そのものがメカニズムとして持つ残酷さを、ティプトリーは見過ごすことが無い。

ところでSF、特にニューウェーブ以降のSFは、小説の冒頭から意味の良くわからない描写をする。意味不明な用語をちりばめた断片的な会話や、普通の人間が行くことのない場所の描写などだ。しばらくSFを離れていると、これがけっこう敷居になる。私も最近はあまりSFを読まなくなっていて、多少苦手になっていたが、冒頭の「天国の門」は、気楽な落語のような話で、これが良い準備運動になった。次の「ビーバーの涙」も「おお、わが姉妹よ、...」も、感情を揺さぶられはするが、あまりSF臭くない話だ。

そして最初の衝撃がネビュラ賞を受賞した「ラセンウジバエ解決法」(The Screwfly Solution)である。地球外生命体が人類に施した、ある「解決法」がもたらす恐ろしい災厄をリアルに描く傑作だ。最初のあたりは離れて暮らす夫婦の手紙のやりとりで構成されていて、何が起こっているのか良くわからない、という敷居の高い描き方がされている。冒頭にこれが来ていたら、この短編集を読むのは止めていたかもしれない。しかし、この迫り来るリアルな印象をもたらすには、これ以外の方法はなかったろう。何が起こっているのかは、丁寧に伏線がはられているので、最初の1/3ぐらいで分かる。ただ、分かっていても惹き付ける力が減じることはない。途中、何度かゾクッとするような描写がある。

その後「時分割の天使」 「われら<夢>を盗みし者」で、さらに一歩踏み込んだレベルで準備運動をした後にやってくるのが、「スロー・ミュージック」Slow Musicである。これも何とも形容しがたい見事な短編だ。80ページほどあるから中編と言ってもいいかもしれない。人類がいなくなった地球に残った若い男女が、河と呼ばれる人類が遡って行った場所に向かう話だ。スローライフ風の少女と、都市で暮らしていた少年、二人の描き方の対比が印象的だ。SFでは、現代人とは考え方の異なる未来人を描くことが多いが、下手をすると現代人の価値観を引きずった似非未来人になりがちである。これに対して、ティプトリーは、我々と価値観の異なるさまざまなキャラクターを見事に描く。ティプトリー自身が、この地球で周囲の人類に対し、宇宙人のような違和感を持っていたのではなかろうか。

最後に『ソラリス』を彷彿とさせる「汚れなき戯れ」という切れの良いショートショートを緩衝剤として、「星ぼしの荒野から」 Out of the Everywhereと、「たおやかな狂える手に」 With Delicate Mad Handsという二つの傑作で締めくくられている。たった200ページほどの中に、どれほど広がりのあるビジョンを頭に叩き込まれたろうか。

こうやって振り返ると、この短編集自体の構成が実に良く出来ていることがわかる。読んでいる間は気付かなかったが。やはりティプトリーは凄かったと実感させてくれる本だった。

航路

コニー・ウィリス
航路(上)航路(下)


ジャンルはSFだろうが、ミステリーと言ってもいいかもしれない。SF味は薄い。上下巻で1300ページもあるが、会話が主体で、ドラマのERのように話がどんどん展開するので、苦なく読める。色々な意味で面白い読ませる小説だ。読み応えのある面白いSFミステリーが読みたければ、文句無く薦めることができる。ただ「泣けた」という人が多数いるようだが、私の涙腺はまったく刺激しなかった。

コリン・ウィルソンの『賢者の石』 を思い出しながら読んだ。『賢者の石』にはボルヘスへの献辞がある。そう迷宮だ。心の中=迷宮というメタファーの物語。そして「日常の死」の物語。

主人公は女性の医学研究者である。彼女は、心停止などを経験した人へのインタビューをしている。NDE(臨死体験)を科学的に解明することが目的だ。そこへ、リアルタイムに脳の活性度合いを計測できる装置を使って、同じくNDEを研究しようとする男性から、共同研究の依頼があり、二人は一緒に研究を始める。

色々な要素がたくさん詰め込まれた遊園地のような豪華な小説だ。それでいて、みっしりそれらが有機的な連携をしていて、相乗効果を上げている。コニー・ウィリスは大した語り部だと思う。

まずは、この医学研究者たちの描写が丁寧で、とても現実味がある。NDEなどという怪しい分野で科学研究をしようとする難しさ、予算獲得、思うようにならないインタビュー、テープ起こしの済んでいない大量の録音テープ、集まらない被験者、焦りと、取り付かれたような没頭、どうも他人事でない。

舞台は私立の巨大病院で、物語の間中、改装工事が行われている。複数の建物から構成されており、途中にペンキ塗り立てや、通行止めが多数ある、酷い迷路になっている。この迷路の設定と描写が面白い。登場人物たちは、この迷路を走り回る。たしかに夢でこういうのが良くある。へとへとになる。

NDEの描写もイメージ豊かで見事だ。ちなみに、天使が出てきたり、故人が迎えにくるといった、いわゆる臨死体験ではない。彼らは、こういったNDEはほとんどが後からの作話である、という前提で研究を進めている。さて、二転三転する仮説に翻弄され、結論はどうなるのか。それは言えないね。もちろん。

また、作品を埋め尽くす登場人物たちの台詞、会話が面白い。ステロタイプのようでいて、その微妙な心の動きを上手くすくい上げている。どの人物も癖があり単純に好きにはなれないが、私はブライアリー先生が一番印象に残った。ちなみに、ネットにはブライアリー英文学集成
http://alisato.web2.jp/book/briary/index.htm
というホームページがあり、この作品に引用されているリファレンスが整理されている。英文学をやる人には、これも楽しみの一つだろう。

さて、ちょっと横道にそれる。先週、私の実家のある田舎町で研究会があったため、実家に帰った。その時に、NHKで放映された山田洋次の『学校IV 15歳』という映画を両親と見た。ちなみに実家のテレビは40インチのプラズマなので、狭い茶の間には邪魔っけで、ずいぶん熱を出すのだが、さすがに映画を見るには最高である。

『学校IV』は、15歳の少年が家出をして、いろいろな人に出会う、とても良くできたロードムービーで、親と一緒に映画を見るのも悪くないな、と思った。その映画の中に、少年が不注意から遭難して、自分の「死」を身近に感じるシーンが出てくる。

多くの人間は、毎日の生活をこなして、一年一年と過ぎてゆく。そうして、簡単には死ねず、老人になってゆくわけだが、そうやって生きていると、安全な道路をゆっくりとしたスピードで走っている自動車のように、危険を実感できなくなってくる。生活習慣病や、腰痛のような緩慢な老化がゆっくりとした歩調で迫ってくるだけだ。すると不思議なことに、生きているということ自体が分からなくなってくる。

少年の頃、私は、そして多くの少年も、自分が走っている道路がどういうところなのか、わからなかった。一度も急ハンドルを切ったことなどないからだ。ところがふとした時、少年達は不注意や、無茶をして、路肩に突っ込んで行く。時々そのまま、あの世に行く者もいるが、多くはその手前で踏みとどまり、路肩から死の淵を覗き込んで、恐怖を感じる。そこではじめて、自分が走っている道の輪郭が見え、意外と道が狭く、前を向いて生きるしかないことを知る。

私が考える日常の死とは、こういうものだ。『航路』では、たくさんのNDEが描かれているが、私のこの感覚との齟齬がなく、その意味で信頼して読める内容である。そして、たぶんこれが『航路』というフィクションの心棒だと私は思う。

パリ左岸のピアノ工房

T.E. カーハート (著), Thad E. Carhart (原著), 村松 潔 (翻訳)
パリ左岸のピアノ工房 (新潮クレスト・ブックス)


「面白い本」という言い方には、いろいろなニュアンスが含まれている。それは「おいしい料理」にもさまざまな言い含みがあるのと同じだ。まず、夢中になって楽しめる小説や、ドキドキさせてくれる小説といった、テイストの違いがある。また、滲みてくるような味わい、鮮烈なクリスタルガラスのような印象といった、伝わり方の違いもある。そして、その場かぎりの楽しみではなく、愛着を感じ、大事にしたくなって、あまり大きな声で面白いと言えなくなってしまうような、「面白い本」に出会うことがある。本棚に納めておくと、自分自身の一部になったかのように感じる本だ。

私がたくさんの本を読むのは、そういう本に出会いたいがために読んでいる、という面が多分にある。私という個人は、この肉体だけでなく、これまで食べた物、暮らして来た場所、家族や友人達、そして、それらの本から構成されている。本を読むというのは、私を作り上げる行為だ。

『パリ左岸のピアノ工房』(The Piano Shop on the Left Bank)はすでに、私のそういう一部である。

主人公はアメリカ人、語り手でもある。彼は、あるピアノ工房に出会い、そこを通じて様々なピアノ達や、人物と出会う。パリの静かな住宅地の一角に、素っ気ない看板の、人気の無い小さな店がある。その小さな入り口を入ると、奥には、外からの光が降り注ぐ広い工房があり、年代物のピアノが何十台も修理を待っている。

まるでおとぎ話のような設定だが、実はこの話は著者のカーハートの体験したノンフィクションなのだそうだ。パリというのはなんとまぁ魅力的な街なのだろう。

ピアノは大掛かりで、また高価な楽器だ。なのに、私たちにやたら身近な存在である。小さな子供の多くは、特に女の子はピアノを習う。学校には必ずピアノがあって、ピアノのある家も少なくなく、昼間に住宅地を歩くと、どこからかピアノの練習曲が聞こえてくる。

私の妹もピアノをかなり長期間習っていた。彼女が家にあるアップライトで練習しているのを、横になって本を読みながら聞いていたのを、ふと思い出すことがある。練習は失敗を繰り返して上手になってゆくので、同じフレーズを何度も聞いていた記憶ばかりが残っている。時々調律士がやってきて、和音を響かせていたのも憶えている。娘も中学まではピアノをやっていた。日本の中流家庭で育った多くの人は、同じような経験と記憶を持っているだろう。のだめを読んで共感する所があるのも、そういう素地が効いているのではないかと思っている。これを読むと、アメリカ人もフランス人も、みなけっこう共通した経験と印象を持っていることを知る。

本の最初のあたりで、主人公は、シュティンゲルというメーカーのベビー・グランドを、ピアノ工房から手に入れる。ピアノ工房の若い職人であるリュックが言う。

あんたはピアノといっしょに暮らすことになるし、ピアノのほうもあんたと一緒に暮らすことになる。ピアノは大きいから、無視することはできない。家族の一員のようなものだ。

ピアノは、そもそも形が美しく、もちろん魅力的な音がする。楽器でありながら、複雑な機構を持つ、機械の一種である。多くの憧れをかきたてる一方、大きく重いので邪魔でもある。また木でできていて、複雑な機構になっているので、メンテナンスにもかなり手間とお金がかかる。ピアノを自在に弾きこなすには、相当の努力と時間が必要で、ピアノがひける人への憧れもある。そういう、様々な思いがピアノには重なっている。

本の中には、いろいろなピアノが登場する。古いピアノ、新しいピアノ、フランスのピアノ、イギリスのピアノ、ドイツのピアノ、日本のピアノ。くたびれている小さなエラール、ローズウッドのスタインウェイ、ベヒシュタインのグランドピアノ、ファツィオーリ。一つ一つが個性と過去を背負って存在しており、登場人物たちと、まったく等価な重みをもったキャラクターとして描かれている。

どの登場人物も魅力的だが、中でも、すごく耳のいい酔っぱらいの調律士と、ピアノを背負って階段を上る運送人、そしてレバノンから亡命して来た女性ピアノ教師が印象的だ。

本の中では、ピアノがどういう楽器で、どのように変化してきたのかが丁寧に解説されていて、多くの発見があった。例えば、ピアノは打楽器の一種で、歌うのに向いていない、というのがある。私もおぼろげにそう思っていたのだが。ピアノは、キーを押せば音が出るという一種の機械なので、揺らぎやニュアンスといったものが出しにくい楽器である。もちろんペダルや、押し方、押すスピードや加速度で変わりはするが、その変化は、弦楽器や、さらには人間の歌声とは比べ物にならない、小さなゆらぎでしかない。ピアノを習ったことがある人なら当然知っているだろうが、ピアノにはこの弱点をカバーするさまざまな演奏法が開発されている。多くの人は、そういった演奏法を贅沢にちりばめたプロの演奏をメディアで聞いて育っているため、まるでピアノが流麗な楽器であるかのような錯覚を持っていはしないだろうか。

ショパンの音楽は、他のどんな作曲家の作品にも増して、ピアノという楽器の中核にあるパラドックス -- どうやって打弦楽器を歌わせるか -- に真っ向から挑んでいる。(p.121)

私は、ピアノで奏でられる演奏が美しいのは、アールデコや、モダニズム建築に類する、機械的な、または抽象的な側面があるからではないかと思っている。人間や生命とは、そもそもの成り立ちから違う、宇宙人のような存在が奏でる流麗な響きが、いいようのない美しさを感じさせるのではないかと思っている。

バルトークのピアノ協奏曲などを聞くと、ロマン派の音楽では美しく整っていた、その仮面がはぎ取られて、荒々しい打楽器として素顔が現れるのに、驚きと魅力を感じる。

読んでいるとピアノが聞きたくなる本だ。ピアノの弾ける人なら演奏したくなるのではないだろうか。私は読み終わって、まず内田光子の演奏するドビュッシーエチュードを聞いた。

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念

チャールズ サイフェ (著), 林 大 (翻訳)
異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


最近、数学読み物にはまっていて、色んな本を読んでいる。この本は、ゼロの登場から現代に至るまでの、ゼロのさまざまな影響をスリリングに描いている。

「ゼロは魚雷のように米国の軍艦ヨークタウンを襲った」という一文から始まる。1997年のことだ。原因は"division by zero"のバグが制御システムにあったためだ。ゼロは数学の始まりから、現代にいたるまで、さまざまな場所で、破壊的な影響力を及ぼして来ている。また及ぼし続けている。たかがゼロなのに。

途中に簡単な数式がいくつか出て来るが、いずれも高校レベルなので、数学の専門知識は不要だ。

ゼロと裏表の関係にある無限、ゼロと無限に支えられている微分積分、物理学におけるゼロの役割など、教科書ではさらりと触れられている重要な部分を例を読みながら楽しく理解できる。高校生なら読めると思う。娘に勧めてみようかな。


本書の付録にある、ちょっと楽しい例を以下に示そう。

aとbは1であるとする。
よって bb = ab ...(1)
また aa = aa ...(2)
式2から式1を引くと、
aa - bb = aa - ab ...(3)
である。因数分解すると、
(a + b)(a - b) = a(a - b) ...(4)
両辺を (a - b)で割ると、
a + b = a ...(5)
両辺からaを引くと、
b = 0 ... (6)
最初にbは1としたので、
1 = 0

初心者プログラマがけっこうやっちゃうんだよね。

本を読む本

M.J.アドラー、C.V.ドーレン著、外山滋比古、槇未知子訳
本を読む本 (講談社学術文庫)


原書は、“How to Read a Book” (1940年出版)、訳出は1978年だ。

本の読み方を指南している。それも、「読むに値する良書を、知的かつ積極的に読む規則を述べた」本だ。フィクションの読み方も第三部で触れらているが、ほとんどはノンフィクション、その中でも、歯ごたえのある書籍を読み解く技術に、多くのページが割かれている。古い本だが、訳には全く古さを感じない。また日本語としても一流だ。次から次に、読書の本質についての名言が現れる。

曰く、


読むこと、聞くことはまったく受動的だと思っている人が少なくない。(中略)相手から積極的に送られてくる情報をただ受けとればよいと考えるところが、まちがいである。(中略)読み手や聞き手は、むしろ野球のキャッチャーに似た役割をもっている。

さらに曰く、


読書技術には、『手助けなしの発見』のために必要な技術が、すべて含まれているのである。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、そして分析や思考によって鍛えられた知性

なお、この本自体、文章の読みやすさに反して、必ずしも読みやすい本ではない。それは、この本自体が「知的かつ積極的に読む」ことを求めている本だからだ。

日本は識字率が高い国である。そのため、本なんて誰にでも読める、読み方なんて教わらなくても大丈夫、という認識が、広く共有されているように思う。しかし、少なくとも私は本の読み方を学校で教わったことがない。外山先生が訳者あとがきで書いているように、昔の日本人の本の読み方は求道的、人生的で、我慢して読め、という精神力の問題だった。これでは読書の「技術」は問題にならない。

しかし、日本人の読書にも、実際的で、知的な読書に重点が置かれるように変わって来た。これだけメディアが発達し、ネットに情報があふれている世の中だが、ちゃんと分析的に読める技術の重要性は増すばかりだ。では、私の学生時代と違い、娘たちが受けている国語教育では、実際的で、知的な読書法を教えているか、というと、残念ながら、まだそうではないようだ。

著者のアドラーは、人間の精神が持つ一つの不思議なはたらき、として、「どこまでも成長しつづけること」と言っている。知的な成長をすると、世界が開けて見え、自分が一つ上の階層に登ったような気になる。囚われていた蒙昧から抜け出せる心地よさを味わえる。これから、また、どんな面白い本に出会えるのだろうか。楽しみだ。

なお第三部のフィクションを扱った章は、小説のレビューを書く方法として、参考になると思った。うまく要約、翻案できれば通信文として流したいと思う。


2009/02追記
この本は、目的的な読み方の基本を説いているのだが、あえて素読する良さというのもあるだろうな。または良くわからないながらも、とりあえず読み終わってみるというのも。理解できないところや読めない漢字は読み飛ばしながら。ただ、この本に書かれているようなボールを受け取る能力を磨くことの重要性は変わらずあるとも思う。

ところで本を読まないと、ボールの受け方を忘れてしまう。だから軽いものでも良いので、キャッチボールを続けるべきだろうと思う。時々、しっかりと投げ込んでもらう。変化球をもらってみる。この本が取り上げるのは、いわば思いっきり体重の乗った重い豪速球である。そんな球ががっしりと取れれば、それは気持ちいいだろうね。