シナモン・トリー

竹下文子


自分の本棚で大学生の時に買った『星とトランペット』を見つけて、そういえばこの作者はいまどうしているのだろうと思った。ちなみにこの『星とトランペット』は作者が大学在学中に書いたデビュー作だった。インターネットの書店で調べてみたら山ほど著書が出てきたので、その中から良さげなものを2冊選んで買ってみた。読み終わってとても残念な思いを抱いている。

実は私の本棚には彼女の本がもう一冊ある。今回読んだ2冊の中間地点にあたる『風町通信』(1986)という本で、これはけっこう気に入っている。飯野和好の絵もあいまって、飄々とした、なんとなく稲垣足穂を彷彿とさせる、楽しい雰囲気の短編集だ。

さて読んだのは以下の2冊。


『星占師のいた街』竹下文子(1984)
『シナモン・トリー』竹下文子(1997)


前者は1978年の『星とトランペット』から6年後の出版、後者は19年後の出版になる。

『星占師のいた街』は短編集だ。表題作は、建物の上に箱船を作って住んでいる星占いの老人の話で、やたらに当たる占いをしてくれるのだが、ある日いなくなってしまう。この短編集のなかでは比較的良い作と言える。ただ集められた短編は全体にさびしい。それもなんか無意味に寂しい。話自体もそうなのだが、けっこうたくさんのアイデアが詰まっているのに、それらを大事に扱うことなく、私の感じからすると、かなりぞんざいに使っている。何やら棚卸しのような使い方だ。デビューから6年後、実はうまくいっていなかったのではないか、そう思わせる残念な短編集になっていると思う。

しかしその2年後の『風町通信』ではなかなか良いところにたどり着いている。今、この4冊を並べて読み比べながら思うのだが、何かふっきれたような文章になっている。自分の良いところを見つけたような。

文章の丁寧さ、繊細さは最初のデビュー作が抜きんでていると思う。文章巧者ではないが、丁寧にことばを拾い上げて紡いである。

さて、その作者が1997年に出したのが『シナモン・トリー』という204ページの中編になる。『風町通信』から10年、どういうところに来ているのだろう。挿し絵は『画本 宮澤賢治 どんぐりと山猫』(パロル舎)など宮澤賢治の絵本で有名な小林敏也、私はけっこう好きな絵描きさんだ。

結論からいくと、迷い迷った実に中途半端な作品になっている。けっしてつまらなくはないし、平均的に言って面白い話になっていると思う。先を読ませる筆力もあるし、設定やアイデアなどに光るものは多い。それと中編というボリュームも魅力を増している。んー、だけど、あぁ残念だ。ファンタジーを描くことの難しさを思い知らされる。

主人公の男の子は、亡き姉が残したトリーという犬の散歩途中に、壁に囲まれた巨大な林業試験場跡地に連れ込まれてしまう。そして、この跡地が実は一種の異世界になっていて、中で冒険をすることになる、という話だ。

この設定自体は悪くない。しかし全体に作者の迷いが満ちているのだ。例えばそれは妻に話して聞かせた次のようなシーンに現れている。少し長いが引用しよう。


「木にはね、よく見ると、一本一本、ちゃんと名前が書いてあるんです。そこらの草にも、ちっちゃい苔にもね。それ読みさえすりゃいいんです」
 ぼくは、あたりをみまわした。でも、もちろん、植物園のように木に解説がぶらさがっているわけではなかった。
「読み方に、ちょっとこつがあって。たとえばね...」
 シナモンは、手押し車をちょっと止め、すたすたと歩いて、細い道の脇に生えている一本の大きな常緑樹のそばへ行くと、ふりむいてぼくを手まねきした。
「こうやって」
 シナモンは、木の幹にてのひらをぴったりあててみせた。
「こう?」
 ぼくもまねして、灰色がかかったなめらから木肌にてのひらを触れた。ほんのりあたたかい感じがした。
「そうそう。そのまま目をつぶって」
ぼくは、言われるままに目をつぶった。
「ほら。何が見える?」
何も、と言いかけたとき、目の中に、小さな光がまたたいた。光はみるみるひろがって、まるい池になった。澄んだ冷たそうな水をいっぱいにたたえた池だ。その水の底から、何かがゆらゆらと一列になって浮かびあがってきた。よく見ると、それはきれいな手書きの文字らしかった。揺れがおさまったところで、僕は読んだ。
ニッケイ Cinnamomum loureirii もくれん目くすのき科クスノキ属の常緑高木。中国原産、暖地で野生化する。葉は偽対生、卵状長楕円形。開花は六月ごろ、新枝上部に集散花序の淡黄色の小花をつける。液果は黒熟する。枝には芳香がある。同属のセイロンニッケイ Cinnamomum zeylanicumはインド南部原産、樹皮を香料・薬用に利用し、シナモンと称する』

(「シナモン・トリー」竹下文子, pp.68-70, 1997)


おいおいシナモン、どこにジャック・インしているんだ?ヴァーチャル・リアリティーか?これは。ずいぶん無神経な表現で、それだけならまだしも、たぶん作者は気づいていない。それが残念だ。感受性に水やりをするのを忘れたのではないだろうか。もしわかっていて書いたのなら、それはそれでずいぶん寂しい。マーケティング主導では。

どちらにしろ残念だ。せっかくの良い芽がうまく育っていないように思える。そして不思議を描くことがいかに難しいかを思い知らされる。エンターテインメントとは別の孤独な厳しい感受性による評価基準が求められる。単に夢を語ればよいのならば誰にでもできる。ただそれを共有されるものにしてゆくには越えなければならない大きな壁がある。そこを越えられるのはほんの一部の作家と作品に限られてしまうのだ。

いつかまた竹下氏の作品を読むことはあるだろうか。


2001/2/18
few01