プロレタリア文学はものすごい

荒俣宏・著


なぜ荒俣先生は目の付けどころが良いのに、どうしてこれほど紹介文が下手なのか。不思議でならない。もうその世界では大御所なのだから、いいかげん文章書くのはやめて、若い文章うまいやつらを掻き集めてアシスタントとしてこきつかって、プロデュースや編纂に従事したらいかがでしょう。荒俣研究室とか作って弟子を呼べば、才能のある奴が山ほど寄って来るように思いますが。

プロレタリア文学がどれほど面白いか、を書いた本で、取り上げられている本はどれも面白いのだが、取り上げ方が悪い。荒俣氏はたぶん自分が受け取っている面白イメージと、自分の頭の中のロジックにずれがあるのが良く分かっていないのではないだろうか?

まずは、直感された面白い点を慎重に取り出して、それをゆっくりと形あるものに仕上げてゆくべきなのに、あらかじめ投網を打って、ひっかかった所から枝葉末節を溢れる博覧強記で装飾するのではダメです。

じゃぁ、私はプロレタリア文学の面白さを、ちゃんと説明できるか、と言われると苦しいのだが、少し考えてみよう。

プロレタリア文学の面白さは、何より舞台設定がわくわくさせられるのだ。笠井潔の傑作探偵小説である矢吹駆シリーズは、プロレタリア文学ではないけれど、共通する要素として、その緊迫した学生運動や、テロリズムが吹き荒れる時代背景があり、それが良い。誰もが、まかり間違ってヒーローになれちゃったりする危ない雰囲気が良いのだ。みんな真剣に危ない事を考えている。小難しい思想が知的好奇心を湧かせるのも良い。

ずいぶん不遜な、不埒な考えと言われるかもしれないが、思想がどれもこれも小さくなって、危なさがなくなった、相対主義の現代に生きる我々にとって、あの危ない時代は、まるで戦国時代か、幕末のようなわくわくさせる感じを持っている。

だから、登場人物が走りまくるのだ。熱いのだ。怒鳴り合い、殺しあう。まったく不道徳だが、小説の面白さは底を攫うような不道徳さにこそある。

そして戦時中とちがって、重苦しさが少ない。戦争小説はどれも敗北あるのみだ。最後は押さえ付けられ敗北することに決まっている。小説としてそれではつまらない。プロレタリア小説は、正面切って勝利することは必ずしも多くはないが、少なくとも心理的には、また精神的?には勝ったことになる。それもエンターテインメントとしての重要な要素だ。

また警察に終われ、悪徳商人に歯向かう登場人物たちにはピカレスクロマンの要素がある。強く大きな敵に立ち向かう民衆の味方である。ねずみ小僧や雲霧仁左衛門に重なる所がある。

それから、でてくる女性や少女の健気なのが良い。たぶん目がキラキラ輝いちゃったりしているに違いない。そんな女性像を喜ぶなんてフェニミズムが許さないだろうが、もともと不道徳なものなのだプロレタリア文学は、だからそういう非現実的な(いまや絶滅した)健気な女性・少女が、まかり間違って生息できる舞台背景が素晴らしいのだ。


2002/5/9
few01