口語訳古事記

三浦佑之

口語訳古事記 完全版


ちいさいころ子供向けに書かれた古事記の絵本を読んだことがある。最初はオオクニヌシノミコトだった。因幡のしろうさぎの話の絵は、いまだにおぼえている。蒲の穂の実物を見たことがなく、どういうものなのだろうか、と思った。頭にムカデを飼うスサノオってのは、なんて気持ちの悪い奴だろうと思った。それから色々な古事記がらみの話を読んだ。東映動画のアニメを見た。高校生の頃は自分で天照大神を主人公とする小説まで書いた。しかし、多数の説話は、ずっとバラバラだった。それがやっと一つになった。なるほど、こういう本だったのか。これはすごい。

ずいぶん癖のある訳本で、完全版とは言い過ぎと思うが、省略なしで全文を訳したものであり、膨大な注釈が付けられている。その意味で、これまで私が断片的にしか知り得なかった古事記の全体像を俯瞰できるものであることは間違いない。

内容は現代語訳と、膨大な脚注、系図、用語解説からなる。その現代語訳が独特で、じいさんが語って聞かせているスタイルにしてある。このじいさんスタイルにインパクトがある。

なお古事記の現存する最古の写本は、古事記が作られたとされる700年代から600年も後の、1300年代のものであり、どこまで原本を留めているか怪しいらしく、加えてそれら写本は漢字のみで書かれており読み方には定説がない。なお古事記読解の開祖といってよい、あの本居宣長は、僕らが学校でならった漢文のような読み方をしている。そしてその読み方には多数の反論はあるが、比較的現代でもメジャーな読み方らしく、三浦氏の口語訳もそれを定本としている。


さてその、じいさんスタイルだが、少し引用してみる。


大君の心に背いてまで好きな男に添おうとしたメドリの心に、大后の心は揺れておったのではなかろうかのう。この方はこまやかな心をお持ちの方での、それゆえに妬みの心も強いのじゃよ。

このような口調は全くの三浦氏の創作じゃよ。稗田阿礼が、こんな感じに喋ったんじゃないかな、と勝手に書いているのだ。現代の翻訳事情などに通じている方なら、「なんじゃそりゃ」と思われるかもしれない。そういうのは訳といわずに「超訳」とか「異訳」っていうんじゃないかと思うだろう。しかし、写本の読み方に定説がないほどの状態なので、これでも「あり」ということらしい。

私個人は、どう思ったかというと、ほとんど気にならなかった。むしろ読みやすく楽しいと思った。なんか頭の堅いじいさんが話してくれるのを聞いているような印象を持って、好感すら感じた。

さらに語り部の文には、相当量の全くオリジナルの挿入文が入れられている。もちろんすべてに「この一文、補入。」という注がついている。私には、なくて良い、自明なものばかりだったが、ここまで書いた方がわかりやすいという読者もいるかもしれない。

脚注がまたふるっている。とにかくたっぷりあるので、本文を読むより時間がかかるのだが、本文の変な所をいちいち解説してある。高天の原をラピュタで表現したり、天の浮橋を宇宙ステーションにみたてたり、多少若ぶって失敗している所もあるが、それも天然ボケだと思って笑って読めば、じいさんの繰り言っぽくてリアルだ。


さて、やっと古事記そのものの感想を書く段になった。

一番強く感じたのは、とても多層的な話だということだ。一筋縄ではいかないし、一枚岩でない、多種多様な話、語りがごちゃごちゃに入っていて、何度も語り変えられている。その混沌とした状態がちゃんと残っている。それがすごい。

大きくはオオクニヌシノミコトの出雲神話スサノオを中心とする神々の話、そしてヤマトタケルの英雄譚、それ以降の系譜がらみの話などからなる。これらは、方向性も背景となる考えも、かなりバラバラであり、脚注で何度も書かれているように、もともとは別の語り物だったものがくっついた可能性が高いと素人の私も思った。

多少乱暴に整理すると、オオクニヌシ(オオナムヂ)は、出雲地方の有力豪族で、なかなかの知恵者だったらしい。彼は、どこからか攻めて来て、最終的に覇権を握ったスサノオ天皇家の祖先とかなりうまく立ち回ったようだ。また、ある程度の覇権を握った、スサノオ達の系列では、かなりに血なまぐさい跡継ぎ争いが何度となくあり、ヤマトタケルはそういった時代の荒々しい力である。

オオクニヌシにしろ、ヤマトタケルにしろ、単一人というよりは、複数の説話が合体した存在のようで、複雑な印象、というか矛盾した印象を抱く。三浦氏によれば、語りとは、そういった矛盾も平気で飲み込むものであるとのことだが、そうかもと思う。語りのルールと、書き文字のルールというのは大きく違う。多くは書き文字の方が論理的だが、必ずしもそうと限らないし、論理的だから真実を捉えているとも言えない。

この古事記は丁寧な整地が施されていない。ゴツゴツと岩が転がり、雑草が生える荒れ地のようだ。しかしだからこそ見えるものがある。何にしろ面白い。

すけべな話も多い。あっけらかんと、すけべな話が書かれている。おおらかである。でも真剣で茶化していない。汚い話も多い。しかし軽蔑がない。殺害の場面も型でありながら、型でない。前者の型とは語り物としての型であり、呪術的な意味の殺害であり、たぶん彼等の時代に日常に流されていた多くの血を背景に持つ殺害である。後者は近代の小説や映画の世界での殺人、手あかにまみれた病的な型である。

全体を通じて、最も面白いのは最初から半分ぐらいまでだ。特にヤマトタケルは一つのクライマックスである。後半も面白いが実際の天皇家の系譜がからみになり、より確からしい(史実っぽい)ためリアルだとは思うし、その意味で重層感があって良いが、語り物としての面白さは半減だと感じた。


実は面と向かって反論を書いたサイトは多くなかったが、なかなか興味深いサイト『古事記正解』
http://www.neonet.to/kojiki/
を見つけた。

研究者の方なのか、市井の愛好家なのかわからないが、現存する最古の写本の一つから、本居宣長に偏らずに素直に読解しようとする興味深い試みをされている。けっこう納得する論考が多く、参考にした。中に、この三浦版は、登場人物の名前を全部カタカナ表記しているのだが、これは問題だ、と書かれていて同感した。私は研究者としてではなく、一読者として同意しただけなのだが。全部漢字表記すると、さすがに読みづらいと思うが、逆に全部カタカナだと、これもまたイメージがとても掴みづらい。漢字でフリガナをつけてもらえたら、読み物として、もっと良かったのにと思う。

日本にこれほど面白い書物があって良かったと思った。嬉しいと思った。聖書や仏典ほどには世界的ではないが、十分にオリジナリティの高い読みごたえのある書物である。いつかは写本を読んでみたい、とは思うが、まぁ果たせない夢だろう。



2003/6/26/
few01