八月六日上々天氣

長野まゆみ


とあるきっかけで長野まゆみをまとめ読みした。『少年アリス』などの初期作品は読んだ事があったが、それ以降まったく興味を失っていた。評判が良いので選んだ四作品は、たしかに、いずれも小説としてのできが相当に良い。ただ私の趣味ではない。たぶん王国に入る鍵を持っていないのだ、私は。

『雨更紗』は、和風の美少年小説だった。幻想的なシーンがいろいろ出てきて、文章もなかなかにうまいので、印象に残っている。しかし私にはそれだけだった。

『夜啼く...』は沼の側の家に兄弟が泊まりに行く話だ。ちょっとブラック入っている。話は『雨更紗』同様なんということもない。いろいろと微妙な感覚を表現したシーンが出てくる。

『魚たちの離宮』は『夜啼く...』に似たような話。というか、長野まゆみの作品って、どれも同じように思える。少しづつプロットがちがうのだが、いじけたり、皮肉ったり、憧れたり、うらやんだりする少年達の心理描写が描かれている。

『八月六日上々天気』は、原爆投下直前の広島が舞台、女性が主人公で、さらに少しストーリーめいたものがあるので、他の作品と毛色がちがう。ただ、塗れた薄紙が、和紙になった程度の違いしか感じなかった。

もう読む事はないだろうが、あまりに「わからない」のは癪なので、少し分析してみよう。

長野まゆみの小説は「少年」を描くことに全てが費やされている。それはある理想の「少年」である。それは宮崎駿が「少女」を描こうと必死に努力するのに、とても似ている。宮崎氏の少女が現実ばなれした一種の理想像でしかないことが、時々指摘されるが、それは世に多く彼と同様の理想像を共有する男共がいることで支えられている。彼の作品に対する真摯さは本物だ。それは自分の求めるものへの真摯さ、でもある。たとえそれが現実から乖離していたとしても。その真摯さが、作品をある不可思議な完成度の高い領域に押し上げる。最新作『千と千尋の神隠し』は、そういう異端の傑作である。

長野の「少年」も、少なくとも私から見れば、まったくの架空の少年像である。どこにもいない宇宙人のようなイメージだ。しかし、それはまたたぶん多くの女性に共有される理想の少年像なのだろう。そして長野は自分の持つ「少年」のイメージに対して真摯である。ぼこぼこと余計なものがくっついた世の中の少年像、ましてやそこらにいる生意気なガキ共、から、自分のクオリティ意識で削りだした彫像が、彼女の「少年」だ。過去の文学者達も常人とは異なる美意識(常に異端の)を突き詰めて作品を構成してきた。それと同じことだとも言える。

たつみや章という児童文学作家(もしくはティーンズ小説作家)がいて、彼女も少年を描くのだが、彼女よりもさらに長野は鋭利だ。削ぎ落とし方が一種病的に細かい。それは才能の証明でもある。

以前、奇妙な動物園の写真を見た事がある。それは白黒の解像度の高い緻密な写真だったのだが、なんと糞が一つも落ちていない。象の写真にも、キリンの写真にも。これはその写真家が、ネガフィルムを相手に糞を一つ一つ手作業ですべて消したものだった。長野の少年には、その動物園の写真と同じ奇妙さがある。


2002/5/9
few01