大航海 2004 No.49


大航海というのは新書館のダンスマガジンという美麗なダンス雑誌の別冊だそうです。ただ大航海はダンスとは何の関係もない評論誌で、ニーチェデリダマクルーハンチョムスキーから、金融、宗教戦争、朝鮮、ジェンダーアメリカ文明など様々なトピックに関して評論を特集してきました。編集長が『ユリイカ』『現代思想』の三浦雅士ですので、硬派な雑誌です。


買った理由は斉藤環と三浦氏の「ファンタジー化する世界」という対談を読んでみて、多少の勘違いはあるものの興味深いディスカッションがなされていたためです。


さて、色々読んでみて、

など資料として価値のある評論がいくつかあり、それも楽しんで読みましたが。

やはりハリーポッターや指輪など最近のファンタジーブーム、つまり「現代」と「ファンタジー」の関わり合いについて語ろうとするいくつかの論考が、自分の興味と重なって面白かったですね。

まずは、勘違いの典型とも言える

など、三浦氏の編集者としての皮肉な態度がかいま見れて思わず苦笑いしてしまいました。まるでスケープゴート

他にも

  • 清水良典「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン --空想の世界という恐るべき現実--」
  • 加藤弘一「まったりとした異世界 --ファンタジーはなぜタブーだったのか--」

は、具体的に、想像の世界と、現実とが色々な意味で混ざり合ってゆく最近の状況を整理するのに役立ちました。

特に清水氏が冒頭に書いている彼自身の小学校の時の経験談は、イメージが見事なだけでなく、ファンタジーの本質に繋がる例だと思います。ただ残念ながら、彼はその素材を、彼の理念で押さえつけてしまっているのだが。


そして今回の特集の中心になるのが

に続いて、総まとめとも言える前述の対談です。

さて思いっきり簡単に要約してみましょう。

最近のファンタジーの受け取り手(読者、視聴者、ファン、教徒)は、
それが幻想にすぎない事を良く知っているのだが、それでも「現実」
であるかのように振る舞うのである。
(大澤真幸「三つの反現実 --理想・虚構・不可能性--」より)


これが出発点の認識です。ここでの受け取り手は、一部のオタクや熱狂的な教徒だけでなく、我々現代人が広くもっている性質ということです。それは例えば

テレビのバラエティ番組で「やらせ」を「やらせ」と知りつつ感動して
いる自分を見いだしたときにそのことにあらためて気付いたりする
(浅野智彦「ファンタジーと物語療法」より)


という風に現れます。

しかしファンタジーはお約束だらけで、ひどく予定調和的じゃないか、そんなものを信じられるものなのか、という問いに対しては、「たまたま地球上に人間が生じたという奇跡は予定調和ではないのか」という疑問が突きつけられます。それが三浦俊彦「ファンタジーとしての<私の宇宙>」で語られている内容です。

わかりやすい例として面白いので多少長めに引用します。子供達が魔王の迫り来る恐怖の一夜をなんとか勝ち抜く、
なんて物語はご都合主義だ、とする批判に対して、

つまり、こうした世に知られぬ一住宅規模のオカルト怪奇現象
というのはその世界ではけっこう頻繁に起きており、その大半
において犠牲者は身も蓋もなく殺されて、何の盛り上がりも
カタルシスも感動もなく事件は終わっている。だがそうした
多数の事件の中には、確率的にいって、鑑賞に堪える予定調和
的美的展開をたまたま辿った事件も少数ながら含まれているだ
ろう。フィクションは、そうした事件にのみ照準を合わせピック
アップしたのだ---、ざっとこういう説明である。
(三浦俊彦「ファンタジーとしての<私の宇宙>」より)


以上要するに、「現実と虚構の区別がつかない」という決まり文句が説得力を持っていた時代は過去であり、「ディケンズバルザックのようなリアリズム文学、あるいはリアリズム芸術のほうが、人類の長い歴史のなかでは例外的ではないか。」(三浦)ということになります。

この特集にははっきりした結論は書かれていませんが、この流れからすると、そうした、虚構を虚構とわかっていながら虚構に頼る我々、そして現実も虚構の一種として認識される、そういう時代に生きている我々は、それを認識しながら、それを乗り越えてゆく必要がある、ということになるでしょう。

さて、彼らの論考は十分に意義があると思うのですが、ファンタジーの熱心な読者という私の立場からすると、多少不満があります。それを書きたいと思います。

まず強調したいのは、ファンタジー小説は、リアリズム以前のメルヘン、伝承、伝説、昔話、とは異なるものだ、という点です。ファンタジーはリアリズムの生み出した特殊な文学形態です。リアリズム文学は、我々の生活する曖昧でとらえどころの無い世界に、信じるに足る「現実」があると文学の形で示しました。それまでは、多くの人は物語で、そのような確固たる世界が表現できるなどと誰も信じていなかったでしょう。リアリズム文学と並んで、遠近法、写真術、科学技術などは、優れた効果を持つ物だったため、我々の世界観を変えてしまいました。言わば一度醒めてしまった。

それらのテクノロジー(リアリズム文学も含めて)の上に作り上げられたのがファンタジーです。人間に信じさせる技術、まるで本当であるかのように思わせる技術を使って、まったくの虚構を描くというのがファンタジーです。

しかし単に、そういった技術的お遊びに過ぎなかったならば、極めて狭い範囲の好事家だけの楽しみだったでしょう。事実、以前はそうでした。

ところが、我々の現実認識の方が実は、技術によって作られた一種の虚構であったがために、ファンタジーは本質的に人間の心理に訴える部分を持っていました。それでも以前は、相当に醒めた一部の人だけが、ファンタジーの持つ二重底、嘘の底にある本質的なリアリティを味わっていたのです。

現代とは、そのような醒めた感覚を、努力せずとも、また特殊な趣味趣向を持たずとも、普通の生活の中で、普通の人が(普通の子供たちが)体験してしまう時代になってしまったということです。

結論は似ていますが、ファンタジーの位置づけが大きく違います。

もう一点、ファンタジーを読んで、自分にとって良い物と詰まらないものを見分けようとして来た者として考える、この現状に対する方策について述べたいと思います。

それは、強い想像力を持つ、ということです。ファンタジーを作るには、何らかの規範に従ってルールを決めて、それを守るように話を作らなければなりません。以前から言っているように大変ストイックなスタイルだと思います。

その規範は、作者個人の中にしかありません。物理法則や法律など、外部に求めても誰も与えてくれない。そもそも虚構を描こうとするのだから、当たり前ですが。

その点で「ファンタジーと物語療法」に出てくる「ユニーク・アウトカム」というのが近いと思いました。

一般にクライエントが語る物語は、ドミナント・ストーリーに
よって支配されているのでがるが、時折その支配を免れた
エピソードが物語の中に現れてくる事がある。これがユニーク・
アウトカムだ。
(浅野智彦「ファンタジーと物語療法」より)


ドミナント・ストーリーというのは周囲の人たちに受け入れられやすいプロットです。実は多くのファンタジーと称しているお話は、ほとんどがドミナント・ストーリーに満たされていると私は思います。

そこには弱い想像力しか働かない。弱い想像力では、そこから抜け出すことができない。その中にユニーク・アウトカムを生み出すには、強い想像力が必要です。

そして強い想像力を得るには、私は実際に自分の頭を使って想像した経験がものを言うと思います。イメージする経験です。どうすれば経験を得る事ができるのかは、これまでこのMLで色々言って来ましたので、あえてここで繰り返す必要はありませんね。