きりぎりすくん

アーノルド・ローベル


いま午後4時ちょうど、フレッシュネスバーガーで、昼とも夕飯ともつかない食事をとっているところだ。アーリーアメリカン調の大きな窓から外が見える。さっきまで曇っていたが、陽がさしてきて、椅子の足のながい影が木目の床にのびている。食べたのはチリビーンズドッグ、やっぱ旨いなこれは。昨日から妻子が実家の九州へ帰っているので生活時間がむちゃくちゃになっている。私も一緒に九州へ行きたかったのだが、トルコ屋台(注1)のおやじが言ったように、職場の学年末試験とでもいう時期で休めないのだ。むぅ。

注1(トルコ屋台):職場の近くにあるドゥーナ・ケバブを食わせてくれる店、ドゥーナに関してはS.E.O.さんに解説をゆずる

前置きが長くなった。今日の昼、住んでいるアパートの階段掃除をしながら、二つの作品を思い出したので、それを書きたいのだ。ここしばらく風の強い日が多かったので、階段は細かい砂埃でずいぶんきたなくなっていた。回り持ちの掃除当番にあたっており、今日は風がなく暖かなので、マスクと軍手を装備し、万全の態勢を整えて開始した。

まず思い出したのがミヒャエル・エンデの『モモ』だ。道路掃除夫のベッポがモモに自分の仕事のことを話したのが印象的でいまだに何かというと思い出す。


「なあ、モモ」と彼はたとえばこんなふうに始めます。「とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」
 ここで彼はしばらく考えこみます。それからやおらさきを続けます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 またひとやすみして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
 そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」
 (「モモ」ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳より)

自分の手元をみてそこに集中し、感覚を集める。そうするとその空間に自分の楽しみが見いだされる。ひとつひとつの動作を確かなものにしてゆこうとする。そうすると周りが見えなくなって、身体と気持ちが手元の空間に集中し、やがて自他非分離の状態に入って行く、自己のフィードバックループが拡大される。IT革命、グローバリズムなどによる、徹底した合理化の網の目からさらさらと抜け落ちて行くもののなかにこういった、仕事のたのしさ、があるような気がしてならない。


さらに階段掃除を続けながら、別の話を思い出した。アーノルド・ローベルの『きりぎりすくん』だ。この絵本の中の話はどれも印象的で、大好きだ。何よりも主人公であるきりぎりすくんの生き方がすばらしい。さて思い出したのはしかし当然ながら、掃除好きの「はえ」のことだ。

はえくんは、家でくつろいでいるときに、じゅうたんの上にほこりを見つける。それを一つつまみとると、また別のほこりが目に入る。それもとって、さらに見ると別のほこり、じゅうたんを全部掃除し終わると、床のどろが気になる、床の泥を全部はいてしまっってから、


「おいら うえから したまで うちじゅうを きれいにしたよ。 まどだって あらったさ。 まどを きれいにしてから おいら そとを のぞいてみた。 すると にわの みちが みえた。 そこには みっともない こいしが あった。 おいら ほうきを もって とびだした。 こいしを ぜんぶ はきすてちまった。みちの はしに もんが あった。 とびらは どろと こけだらけだった。 おいら それを みんな ごしごし あらいおとした。 それから もんを あけて この ほこりっぽい きたない みちへ でたんだよ。」
「おいら ほうきを とって みちを はいて はいて はきまくってきたのさ。」
と、いえばえは いいました。
「きみは とても はたらいたんだね。」
と、きりぎりすくんは いいました。
「ちょっと やすんだら どうかな。」
「だめだめ だめだよ。」
と、いえばえは いいました。
「おいら ぜったいに やすまない。 こうしていると とても たのしいんだ。 おいら はいて はいて、せかいじゅうが すっかり きれいになるまで はきつづけるんだ!」

(「きりぎりすくん」アーノルド・ローベル作、三木卓訳より)

ずいぶんベッポの話と対照的だが、ここにも真実がある。そしてこの話の「はえ」は、ずいぶん可哀想な感じもするけれど、ローベルの絵のまじめそうな蠅がなんとも愛おしくて、好きなキャラクターだ。登場人物はなにかしら狭い考えにとりつかれてしまっているキャラクター達だが、ちっとも説教臭くなく、どの生き方にも作者の愛情が注がれているのが、読んでいて気持ちが良い。

それにしても童話というのは、どうしてこうもズバリと真実を表現できるのだろう。みじかい、誰にもわかることばなのに、ぴたりと伝わってくる。さて、そうこうしているうちに、掃除を終わって、振り返ってみると、あれだけ苦労して掃除したにもかかわらず、あんまり綺麗になった気がしない。こびりついた汚れのたぐいは簡単には取れないのだ。それでもほこりが一掃された階段を三階までのぼったら、とても気持ちがいいことに気づいた。そんなもんかもしれない。

掃除を終えて自転車に乗ってここバーガー屋まで来て食べたチリビーンズドッグはいつにもまして旨いと思った。すでに陽がかげってきた。さて帰って風呂に入って、夜9時からのドラマの最終回にそなえよう。


2000/3/26
few01


2003/4/24追記

掃除に限らず、家事全般に言えることのような気がしている。時々、手伝いとして家で、皿洗いや洗濯、片づけものをすることがある。たくさん洗うべき皿がたまっていると、やる気が失せる。そう言う時は、さいしょに切り崩す所(大概ははしっこの方)を見て、そこを綺麗にすることを考える。ずっとやろうとプランニングするのでなく、とりあえず、そのはしっこを片付ける。

最近お気に入りの道具はシリコンたわしだ。「べっぴんさん」などという商品名で売られている。水をつけてこすると、水垢の類がみごとに綺麗になる。はえくんに教えてあげたら喜ぶかもしれない。

たとえば蛇口をシリコンたわしでこすってみる。ちょっとこするとピカピカになる。けっこう嬉しい。嬉しい気持ちがわくと、もう少しやってみたくなる。

だんだん綺麗な領域が広がってゆくのは楽しい。ただ短時間でやらなければならないと、難しい。モモが戦って取り戻してくれた「時間」が重要だ。時間を気にせずできると、作業はぐっと楽しくなる。けっきょく、楽しくやると短い時間ですんでしまったりするが、それは結果論であって、短くやれるからといって、無理矢理楽しむというのはできない。