ノスタルギガンテス

寮 美千子


これら寮美千子の作品群も『精霊の守り人』とともに、以前から気になっていたのに手をつけていなかった。ただWebでいくつか児童文学やファンタジー関係の書評を読みついでいる内に何度かこの人の名前を見ることがあって、比較的時間のとれるいまの時期に乗り越えておこうと思い、三冊を選び読んだ。

読み終わって思うのは、なんてわたしと皮膚感覚の合わない作風なのだろうか、ということだ。他の作家で言えば、長野まゆみに近いが、あの耽美とは違う、別の美意識で、逆説的だが実は私に近い。だから一種の近親憎悪だろうか、とすら思った。読みながら辛かった。それでいて、いわゆる惹きつけられるというのとは違う、別の捉えて離さない力のある本だ。並行して読んだ『精霊の守り人』の上橋菜穂子とは実に対照的だった。

『ラジオスターレストラン』は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』へのオマージュとでも言える作品で、あからさまな模倣が鼻につく。普通であればこれは悪評だが、実はそう単純ではない。

バイオリンを習っている少年が、ある村にいる。彼とその友人は、この村では一種のよそ者で、学校でも、村の祭りでも除け者扱いされている。祭りの夜に、少年は行ってはいけないとされている山に登り、そこで漆黒のサーベルタイガーに強引に導かれて、異次元に浮かぶレストランに到着する。それがラジオスターレストランである。そしてレストランで出会ったラグという名のロボットと、サーベルタイガーとともに少年は行方知れない旅に出る。

天文台、牙虎、水晶、恐竜、流星、少年」(帯より)、出てくるオブジェ、名前、シーン、セリフがいちいち気に障るのだが、それを無視しながら読みすすめる。そうすると慣れなのか、作者の力量なのか、嫌悪感は薄れないのに、ものがたりの歯車が回り出す。大きな機械仕掛けが、なんの変哲もない部品で構成されている巨大な仕掛けがゆっくりと動き始める。ギシギシと軋みながら動き出す。

作品には一切の生活感がない。感覚が捉える微妙な手触りや、印象に執着して、架空の世界が積み上げられてゆく。こういう点や、ガジェットへのこだわりという点でまえに評した『シナモン・トリー』(竹下文子)に近い。しかし竹下氏と違い、寮氏ははるかに意識的で、徹底して考えつくされ迷いがない。たとえば作中に核戦争の話が出るが、『シナモン・トリー』でのエコロジーと違って、批評精神が欠如している。極端にいうと、寮氏にとって核戦争後の地球というのは、作品を彩るピースにすぎない、それが持つ風合い、印象の膨らみが、自分の作品の構成要素として重要であるから使ったまでだ。隅々まで寮氏の美意識が行き届いている。

それらの要素が組み合わさり動き出す。まるで大がかりなインタラクティブアートのようだ。読者は機関車のようなそのアートに乗り込んで、一緒に物語の中を突き進んで行く。『ラジオスターレストラン』では、多重に重なる話のそれぞれの結節点が結び合わされながら、最終的に一つの円環として運動しつつ閉じられる。

読み終わった私はなにか騙されたような、妙な後味の悪さを感じながらも、良くわかっていなかった。妙な話で、たしかにこういう経験はなかった。

小惑星美術館』の方が実は先に出版されているが、読んだのは後だった。なお『ラジオスターレストラン』と、これは同じような登場人物が多数出てくる姉妹書のようなものだが、特に時間的にも空間的にもつながりがない。

二つのストーリーは全然違い、こちらはよりSFっぽいが、二つの印象はきわめて似ている。これも一種のオブジェ作品だ。近い時期に発表されているので、作品のスタイルに共通点が多い。なお妻に言わせると、こちらは『地球へ』(竹宮恵子)だ。実際、おおくの基本構成をそれに借りている。

同じ名前の主人公の少年が、事故によって多重世界へと飛ばされてしまう。そこはマザーコンピュータが管理するスペースコロニーである。少年は12歳の住民に義務づけられている「遠足」と称する宇宙旅行に無理矢理参加させられる。

寮氏の作品の主人公は、いずれも非常にセンシティブな少年で、すぐに気分が悪くなったり、癇癪を起こしたりする。ちょっとしたことで吐きそうになってしまう。ほとんど不機嫌で、生活の実感に沿った喜びを拒絶してるかのようだ。

なお作文技術は非常に高いと思う。ありきたりな構成要素なのだが、それらが填め絵のようにぴったりと組み合わさった文章だ。

さて最後に読んだ『ノスタルギガンテス』は、以上の2作品が児童文学であるのと違い、大人向けの小説として書かれている。そのため遠慮がない。児童文学と大人向けの小説の違いについては、いつかまた書くことがあるだろう。今回は寮氏の作品の話をするので手一杯だ。

ある街に少年が住んでいる。彼はかなりの変わり者で、大人と話がほとんど通じない。彼には見えているもの、感じられるものが、大人はおろか、他の子供にも見えない。その彼が公園内の、ある大木の高い梢に、金属ゴミで作った恐竜「メカザウルス」をしっかりと結わえることから話が動き出す。彼と血みどろの喧嘩をする仲間が、それを真似て多数の廃品を枝中に結わえる。やがて大木はキップルと呼ばれる多数の廃品に埋め尽くされるようになってゆく。

これは寮氏が、自分の作品を、自分自身の作品の中で形を変えて描いた小説だ。この作者は過去の作品の模倣を批判的にではなく、直接あからさまに、意識的に行う。それは大木の梢を借りるのと同じだ。そして結わえ付けるガジェットは、一種のキップル、廃品だ。しかし廃品には二種類あり、生きた廃品(キップル)と、そうでない似たようなものがある。その厳密な違いは主人公にしかわからない、属人的なものだが、その違いは明白だ。大木は小説の骨幹であり、そこに多数のキップルが自己増殖的にインプラントされてゆく。

大木は多数の他者の手を借りて、主人公が思いもしなかった広がりを見せはじめる。形を変え、騒ぎ立てられ、そして名付けられる。作中で意思を持って語る人物が三人いる。主人公の少年と、途中から現れる写真家と、芸術家だ。例えば主人公は終わりに近いあたりで次のように考える。


けれども、ぼくにはその水色も黄緑も、まるでテレビの画面に映る走査線の色にしか見えなかったんだ。確かに季節がひと廻りしたんだと、そう感じてはいたけれど、その輪はきっちりと閉じてはいなかった。ねじれたメビウスの輪。或は、戻ることのできない螺旋。

また芸術家はつぎのように言う。


ぼくは生きているノスタルギガンテスが欲しい。生成し流転し続ける運動体としてのノスタルギガンテス。この世に永遠なものはひとつもない。あるとしたらそれはただひとつ、ものそれ自体ではなくて『運動』だ。わかるだろう。ぼくが欲しいのは剥製や標本じゃない。運動そのものだ。永遠に生成する機関だ

写真家はこういう。


おれはただ、もっとはっきり映る場所に鏡を持っていくだけさ。みんなによく見えるようにね。みんなまだ、気がついていないのさ。おれたちには、こんなにはっきり見えるのに。

この三人の声は、いずれも寮美千子自身の制作に対する姿勢、思想を表していると思う。自分の愛好するガラクタ、ファンタ物を積み上げて行く行為の意味するところ、それでは到達できない目指す場所、しかしそれでしか近づけないという信念、巡り巡る円環、そこから抜け出すための螺旋運動について語っている。

さて、また寮氏の作品を読むことはあるだろうか。

あると思いたい。もしくは氏の新作を読める状態でありたい、と思う。


2001/3/20
few01