幻想文学論序説

ツヴェタン・トドロフ

幻想文学論序説 (創元ライブラリ)


まず読み始めて感じたのは、文学評論にしては珍しく理系的だ、ということだ。こういう分野もあるのか、と思ったが、解説を読んでやはりかなり特殊なムーブメントであったらしいことがわかった。論理的な記述や、科学分析的な方法論が、日頃読んでいる論文と近いので読みやすいと思った。しかし相手が相手だけに、そう単純ではなかったが。

理系的ということでいうと、工学的と理学的というのがあるが、どちらかというと理学的な方だろう。私は工学屋なので、この本のように目的を設定せずに、定義と論理で展開されると少々面食らうところがある。ところが単に理学的であるならば、定義にこんなにページを使ったりはしないものだ。さらに途中で非明示的に目的が臭わされているあたり、論理の展開に迷っていると思えた。これも解説を読んで、なるほど著者は自分で展開の仕方を創作しようとしていたのだ、と納得した。

さて前半は幻想文学の定義に費やされているのだが、この定義が幻想文学ならば、私が興味のある作品の多くは外れてしまうな、と思った。そしてこれはすでに多くの人が指摘していることらしい。またここで述べている内容ならば「ためらい」というよりも迷いもしくは判断保留、または四方田氏の「認識の不確定性」という方が近いと思う。なぜなら「ためらい」というのは決断の一歩手前という時に使う言葉だからだ。「ためらい」と定義したので、どっちかに落ち着く、という結論になる。

この定義で漏れていて、私がもっとも関心の深い分野として、もともと嘘っぱち、ここでいう超自然だとわかっているのに、面白いという話がたくさんある。ここでは「驚異」と一括りにされている。明らかに変、だと頭ではわかっていても、こんなのはあり得ないとわかっていても、それでも信じたくなる、それでも魅力を感じる、という作品がある。そういう時、人はためらったりはしないものだ。

人間の思考には一般に複数の判断が並存する。感覚的には誰もが思い当たることだろう。それを考えると、ここでの定義は、非常にナイーブである。

このような私の関心のある分野に関しては、後の方でカフカの「変身」やSFについて書かれているところで言及されていた。しかしカフカは私の趣味からすると超自然に対して緩すぎる。それはともかく「変身」は定義上は「驚異」になるが、そこに属するとはいえないジャンルと書かれている。「ためらいを放棄してしまった物語」と。当時はまだ一般的ではなかったのだろうか。こここそが幻想文学の末裔の中で、現在もっとも多数の読者を獲得している領域だ。文学、ではないかもしれないが。

著者は、自分が定義した幻想文学が狭い範囲に限定されていることを、彼自身わかっている。だから短命だ、とも書いている。その点でこの著者の予想ははずれていない。たしかに幻想文学の衣鉢を継いだ超自然「ためらい」小説もないことはないが、ここで書かれているように現代の読者は超自然が出たからと言ってためらうほど安定した基盤にはない。

後半のテーマ編では、我々の現実認識の基盤である、個と関係性のそれぞれへの侵犯が、幻想文学のテーマとして良くみられる、と書かれている。個への侵犯が「私」のテーマ、関係性への侵犯が「あなた」のテーマである。普通なら、まず最初にこういう仮説を提示してから、各論に入ると思うのだが、ごちゃごちゃと書いた後で、仮説を出すというダサい(まさかこれが構造主義の手法でもないと思うが)書き方がされている。ま、それは置いておいて、この分類は面白いので、採用しようと思う。
  

2000/06/29
few01


2004/3/7追記

これは2000年にある掲示板に書いた文章から、掲示板での文脈に依存しない部分を抜き出したものである。いまさらながら最近の考えの基本にあると思えるためここに再掲したいと思う。原文は以下のアドレスにあり、そこでは主催者からの丁寧な返事もリンクされているので、興味のある方はご覧頂きたい。

原文:
http://club.www.infoseek.co.jp/bbs/view.asp?cid=p0500003&iid=3&num=73