富安陽子と瀬田貞二

日本児童文学2002年3, 4月号
八束澄子「しあわせな子ども時代のおすそわけ」
斉藤惇夫「富安陽子讃」


免許証を持って地区の図書館へ行き、利用者カードを作ってもらいました。今までは家族に借りてもらってましたが、やっと自分で借りることができます。利用者カードを持って、館内をうろうろすると、どれでも借りられるので、自分の本棚が一気に15万冊膨らんだようで、嬉しいですね。

さて2冊借りてみました。その内の一冊の感想を書きます。

日本児童文学という雑誌の2002年3, 4月号です。お気に入りの富安陽子と、以前から気になっている高楼方子が特集されていたのが理由です。二人関連の複数の評論から構成されています。しかし最初の3つほどの評論は、私があまり好きでないタイプの、いかにも児童文学関連の評で、ちとがっかりしました。どういうタイプかというと、視点がはっきりせず、ぼやぼやと読書感想を連ねたような書き方です。

しかし後半、富安陽子について書かれた二本の評論が良く、借りたかいがありました。一つは、児童文学作家の八束澄子氏が書いた「しあわせな子ども時代のおすそわけ」、もう一つは『冒険者たち』の斉藤惇夫氏が書いた「富安陽子讃」です。

八束氏の評は、私が感じていた富安作品の魅力をうまく表現した、地に足のついたものでした。

たとえば、まず「食べ物に対するこだわりは相当なものがあります」として、富安作品での食にまつわる部分を取り上げています。食べる喜びを感じられるバラエティと、調理表現などは富安作品の大きな魅力の一つです。

そして、「こだわりの眼は、生活の細部にもしっかりとそそがれます」として、「生活実感がうすっぺらなものになりつつある現代生活からすると、ため息のでるような豊かな暮らしぶり」が描かれる魅力について書かれています。今風に言うとスローライフでしょうか。土の香りのする、植物の湿り気の感じられる生活が描かれています。これも私が同感するところです。

八束氏は、この作風の背後には「きっと富安さんは、とてもとてもしあわせな子ども時代を過ごされた方にちがいありません」と想像していますが、たしかにそうかもしれません。彼女の作品には基本的に疑いの目がない。とても安定した土台を感じます。けっして文学者としては、その素質は良いものとばかりは言えないと思いますが、(ひねくれものの方が面白いものを書いたりします^_^;)、こと富安氏に関しては上手く彼女の文学と結びついていて、良かったなと思います。

この線から、富安氏の作風の重要な要素として「安心感」がある、と八束氏は書いています。いわく「まゆも悦子も(富安作品の登場人物)、たくましいお母ちゃんのきめ細やかで、愛情という蜜のたっぷりかかった暮らしに、なんとしっかりとつつみこまれていることでしょう。そしてそこから二人は、安心して、心躍るような冒険や探検へとのりだしていくのです」

八束氏は、児童館で現代の子ども達相手に読み聞かせを実践してきているようですが、その経験から現代の子どもに「安心感」が不足しているとして指摘しています。その彼女ならではの視点からの評で、良い印象を持ちました。


さて、斉藤惇夫氏の「富安陽子讃」ですが、これは富安陽子について書かれていると同時に、瀬田貞二についても書かれており、全体として日本の児童ファンタジーの俯瞰が得られるという、なかなか見事なものでした。これが読めただけでも借りたかいがありました。

冒頭、斉藤氏の仕事場に、大学生であった富安陽子が編集者の紹介でやってくる所が描かれます。


黒っぽい地味な服装をした少女が背筋を伸ばして、細い棒のようにすっと突っ立っていた。(中略)おまけに、細い棒のてっぺんについている目はやたら大きく、ひたすら好奇心にあふれ、顔全体は動かないものの、くるくると、何一つ見逃しはしないからといった気合で、活発に運動をつづけていた。

この書き出しからして見事ですね。良く出来た短編小説を読んでいるようです。その時、斉藤氏は忙しく、ほとんどとりあっていないのですが、その印象が以降の富安観の中心になっています。すぐ後で富安作品を読んだ斉藤氏の第一印象は、「清冽という言葉をまず思い浮かべた」というものでした。さらに


そして、ああ、この人は物語を読むことと書くことが大好きな人で--エルマーやナルニアホビットムーミンが次々に翻訳紹介された時代と、この人の小学校時代は重なっている。
と書いています。このMLメンバと同時代でしょうか。

そして、それと同時に富安作品に、あっさりと「やまんば」や雪女、「あずきとぎ」などが、しがらみを抜けて登場することに関して、違和感を感じています。その違和感をひもとくために、瀬田貞二の思い出が書かれます。


富安さんが『冬語り』を書いた一九七九年に、炭焼きに身をやつした日本最後の天狗が、最後の魔法を使って滅ぶ物語を書きたいとおっしゃっていた、瀬田貞二さんが亡くなられた。

この幻の作品は博物学者、民俗学者、エンサイクルペディストであった瀬田貞二が、子どもたちのために書く、わが国はじめてのファンタジーになるはずでした。しかし作品は作成されずに終わりました。これは斉藤氏にとっては一つの時代の終わりであったようです。


人間にとっては、「河童が生きている」のが真実なのだと言い切った人が、次第に追い詰められて最後の天狗の物語を書こうとし、しかし書くことすらが不可能になったわけである。ファンタジーを生みだす風土は潰えた。それが私たちの国の戦後、そして高度成長であった。

宮崎駿高畑勲なども、斉藤氏と同じ時代の人ではないかと思います。彼等の発言にも時代の終わりを経験したことが時々混じります。この時代認識が違和感の原因でした。富安氏作品には、やまんばや雪女など古くから知られた物の怪が、あっけらかんと登場します。斉藤氏の時代認識からすれば、そんなに簡単に登場できるはずはないだろう、と思うのに。

これは斉藤氏とは違う時代の、たぶん富安氏と同じ世代の私も、斉藤氏ほどには痛切にではないが、同じように感じていたことでした。なぜ、そうも簡単に現れるのだろうか、と。

その後、富安作品を読み続けた斉藤氏は、しかし次の考えに移って行きます。富安作品は、瀬田貞二とは逆の方向から問題に迫っているのではないか、というものです。


富安さんの心の中で、かつてあっけらかんと登場させたものたちがもういちど検証され、しぶとく生き抜くために鍛え直されている、という感が深い。それは瀬田さんが辿った道の逆で、富安さんは、今の世界にまず、あっけらかんと精霊や妖怪を甦らせ、荒れ果てて甦生する力を失ったかに見える自然や人の心を横目で見ながらも、何とか彼らが「生きている」ことを証明することによって、子ども達の心に灯をともそうとしている。

この最後のまとめは、実は斉藤氏の祈りのように思いました。私には富安氏が瀬田貞二と逆方向から、うまく問題に迫ればよいが、相当に厳しかろうと思います。ただ彼女の力量は、もしかすると乗り越えられるかもしれないと思わせるものでもあります。

ここ数年、高度経済成長時代に作られた、たくさんのシステムが次々と崩壊していっています。終身雇用、年金制度、年功序列企業別組合、ベースアップ、公団住宅、健康保険などなど。安心できる組織はなくなりました。しかし失った自然環境や、地域社会など高度成長が破壊したシステムは復活しません。いま私たちは宙ぶらりんの、失われた時代に生きているように思います。この時代を生き抜くためには、不思議な生き物たちの存在は、必須のものだと思います。富安陽子に限らず新しい時代の作家達が、瀬田貞二が向こう側から登ろうと努力した山を、こちら側から挑戦し、私たちに希望を、心のよりどころを届けてくれることを期待したいと思います。


2003/7/23
few01