暮しの手帖


暮しの手帖」という雑誌がある。実はこれまであまりまともに読んだことがなかった。土曜日に本屋めぐりをして、あまりに長時間立ち読みをした本屋を出る際に、申し訳程度に何か一冊買うことにして、これを手にした。2003年8・9月号、特集は「われら夏休み探検隊」と「もっと自転車を!」で、そのタイトルと中の写真を見て決めた。読んでみて、なんて清々しい雑誌だ、と思った。以前から、その歯に衣着せぬ商品比較記事のことは知っていたが、通して読んでみて、その雑誌としての特異さに驚いた。まず広告が一切ない。それでいて900円という値段で、この質の高さを保っている。

少し寄り道すると、最近、若い頃思っていたよりも、お金というのは人にとってとても大事な、大きな意味を持つものだ、と思うようになった。何も目の前のお金に困っているとか、吝嗇を勧めているわけではない。ただ命にやたら近い所にお金の存在があるということだ。例をあげる必要はあるまい。だからベストセラーとか大ヒット作品というのは、それだけの莫大なお金が個人の懐から動いているわけで、それだけでも凄まじいものだと思う。そして企業は沢山のお金を稼ぐために動く。雑誌だって売れなければ廃刊される。しかし企業活動、もう少し広く言うと資本主義の限界を感じることもある。その効用、力強さ、それによって生み出される活力ある様々な物のすばらしさを感じながらも、その限界を感じることがある。例えば、良質の手作りアニメーションなど個人が長い時間をかけて作る作品を資本主義の元で作り出すのは極めてむずかしい。(若い頃はその限界の方ばかり見て、効用が良く見えていなかったのだと思う。)

私たちが日常目にしている情報の多くは、広告やスポンサー、つまりお金を出してくれる人が背後についている。もちろんスポンサーの力が極めて強い物から、比較的弱いものまである。テレビで流れる情報は当然のことながら、映画や小説、評論も何らかの背景となるスポンサーがいるのが普通である。そのため私などは、それらのスポンサーへの配慮を透かすようにして、何が本質的な情報なのかを推測する癖がついている。また、そのような読み物では隠喩や、伏せ字、言い換えなどを使い、姑息な表現手段を取る場合も少なくない。

そのような一種色眼鏡が当たり前の状態で、この雑誌を読みはじめると、あまりの直接さに戸惑う。単に直接だというだけでなく、読者への配慮が丁寧で細かく、その「しつらえ」のために全ての手間と労力がかけられている。心の色眼鏡が突然場違いに思える。不思議な体験だ。

世の中には見た目の値段と、実際に支払っている値段が違うものがたくさんある。コカコーラの値段のほとんどは販促費用だと以前聞いたことがある。酒やタバコは税金である。民放のテレビ番組はタダで見れるのだが、それは別の所で十分にお金を使っているからだ。お金を払う行為そのものに、こういう捻り構造が当然になっている。これも一種の色眼鏡的常識か。それに対して「暮しの手帖」の900円の内訳が何なのかはわからないが、手応えのある900円である。900円がこの雑誌になっている、という実感を感じることができる。これも珍しい。

雑誌の中身を全然書いてないのだが、中身を有用と思うか否かは人によるだろう。ただ自分が良く知っている範囲の内容を読む限り、その質の高さは一定しており、他の記事も相応の質を持っていると予想できる。だから関心のある話題が取り上げられているなら、はずれはないと思う。

もともとは記事の中の、夏休みの子どもや、自転車や、寄席の話が、このMLに向いていると思って紹介しようと思い、取り上げようとしたのだが、より本質的なインパクトが大きかったので、そちらを中心に書いた。まだ雑誌も捨てた物ではない。この雑誌がある限りは。


2003/8/11
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