村田エフェンディ滞土録

梨木香歩
村田エフェンディ滞土録


『家守綺譚』の姉妹編という位置づけになる。

明治初期に、トルコへ考古学を学びに留学した村田君の経験談だ。『家守綺譚』と同じく擬古的な文体で書かれている。この擬古的な文体は上手ではあるものの、好きじゃない。それは『家守綺譚』でも馴染めなかった要素の一つだった。

でも話そのものは、なかなか良いものだった。特に「羅馬硝子」と、それと離れて繋がる最終章に、胸にくるものがあった。それは研究者として日々考えていることと重なっていたからかもしれない。

『家守綺譚』が結局しっくりこなかったのに対して幸いな事に、この物語の世界には何とか入る事ができた。

この「入る事ができるか否か」というのは小説を読む時に、とても大きな要素だ。何がそれを決めるのかは、私には未だにわからない。作品そのものだけでなく、自分の状態にも大きく影響を受けるように思う。

ゆったりと落ち着いた気分の時、心が急いている時、昼、夜、読む場所、電車の中、帰省した田舎、体調、疲れている時、元気満々の時、雨の日、雪の日、直前に食べたもの、読んだ本、見た映画、などにも影響を受ける。もちろん自分の年齢も大きなファクターだ。

児童文学の中には、ある一定の年齢範囲の子供にぴったりで、その範囲制限が厳しいものと、比較的広い範囲の読者に受け入れられるものがある。どちらが優れているとかいうのではなく、そういう性質だというだけだと思うが。

梨木香歩の作品は、実はそのターゲットが、見た目ほど広くない、と思う。一見広く見えるのだが、実は狭い、という印象だ。比較的入りやすそうに見えるのに、私は、何度か拒絶された。

これ以降は、憶測にすぎないのだが、この作品の受け入れ範囲は、作者自身のコミュニケーションスタイルと大きく重なっているのではないか、と思う。

最初から、相手を選ぶ雰囲気を濃厚に発している人も入れば、幅広い相手にやわらかな手を差し伸べるような人もいる。さらに第一印象から何層にも、人それぞれの付き合い方の諸相があって、中に一見、人当たりが良さそうなのに、実はその上手な層の大変薄い人、その下に、比較的硬い自分を持っている人、がいる。

この『村田エフェンディ滞土録』の中には、たくさんのコミュニケーションの話題が出てくる。いや、それが中心の話といっても良いかもしれない。

ギリシャ人と、ドイツ人と、英国人と、トルコ人に日本人、そしてオウムが出てきて、それに不思議な存在達が出てきて、交流をはかる。

様々な本と付き合うのも、そういった様々な人々と話し合うのに似ているかもしれない。自分にすぐさまぴったりくる本もあれば、時間をかけて徐々に馴染んでくる本もある。

ところで、『家守綺譚』の後にこちらを読んで、個人的には良かったと思う。最終章で二つの話は繋がる。でも逆の順番で読んでもまた、それはそれで楽しめるかもしれない。また、これを読んで、今なら『家守綺譚』の世界にも入ってゆけるかもしれない、とも思った。