リトル・フォレスト 1巻

五十嵐大介
はなしっぱなし 上 (九龍COMICS) はなしっぱなし (下) (九竜コミックス) そらトびタマシイ (KCデラックス アフタヌーン) リトル・フォレスト(1) (ワイドKC)


彼のマンガの絵は、強い説得力をもつ。しかし作品の背後に流れる、心の動きはずいぶん脆い、という印象がした。特に『はなしっぱなし』『そらトびタマシイ』に強い。

それが『リトル・フォレスト』では、ずいぶん安定したように感じられる。ただ通奏低音としては、相変わらず伝わらない悲しみのようなものがある。しかしそれは、彼のオリジナリティとみなせる程度に薄まっている。

『はなしっぱなし』は現代の百物語といった短編集でたしかに完成度が高い。復刊を望む声が強かったのもうなづける。一度見たら忘れられない印象を残す。日常生活と重なるたくさんの幻想を描く。

不思議を描く作品では、現実から、どのように「ずらしてゆくか」がスタイルを決める。彼のずらし方は、私にとって一種、既視感を感じさせる。近い。それがたぶん彼の絵だけでなく私が惹かれた理由の一つだろう。

「アメフリ」という短編が印象的だ。古い民家に住む作務衣を来た若い男が、一抱えもある壷のようなものを作っている。それを若い女が抱えている。古い楽器を復元したものらしい。濡らした指でふちをこすると音がする。ひゅーんひゅーんと音がする。記録によると、それは雨の音らしい。ざぁざぁいうのは雨が何かにあたって出す音で、雨そのものの音でなく、雨自身が空中をおりてくる時に出す音を表したものだということだ。男は用事で外に出る。その間、女は音を出し続ける。その音に呼び覚まされた様々なものたちが目を覚ます。

『魔女』に収録されていた「KUARUPU」でもそうだったが、エコロジー的な発想の強いマンガが多い。比較的直裁なエコロジーであり、仏教的とすら感じる、そうすると素直に、食への関心が強くなり、自給自足に近づくのは、大変自然な流れだ。

『そらトびタマシイ』は、『はなしっぱなし』から後の現在にいたるまでに描かれた作品を集めたもので、どれもかなりの力作だ。私にとっては特に「すなかけ」という作品が残った。

砂の女』へのオマージュともいえる作品で、体から砂が湧き出てくる特異体質の女性と、一緒に暮らす男性のもとに転がり込んできた家出娘の話だ。女は、緊張したり、焦ったり、気持ちが動く時に砂が体から出てくる。汗のように。

彼の扱うモチーフは、いずれもけっこう深刻で、普通ならば、かなりドロドロした作になりかねないと思うのだが、実に具体的かつ、あっさりと、多少ふんわりとした、柔らかい作品になるのは良い持ち味だと思う。そこも私が気に入るもう一つの理由だ。

絵は、現代に近づくほど白っぽくなり、見づらく、それまでピントのあっていたのが暈けたような、ざっくりした絵になってきている。個人的な好みでは、もっとカッチリとしたのが好みだが、彼の場合、この変化はさけられないように思う。

『リトル・フォレスト』は彼が、たぶん住む所を舞台にした農村のマンガで、食べ物を作る話だ。グミのジャム、自家製ウスターソース、ひっつみ、なっとうもち、あまざけ、ばっけ、つくし、などなど、なかなか旨そうな料理が並んでいる。昨今のスローフードに対する高まる関心に重なる時宜を得たものだ。

五十嵐大介、いいんじゃないか。なかなか。やっぱり長編が読みたいな。無理かな。