バッテリー VI巻(最終巻)

あさのあつこ
バッテリー (6) (角川文庫)


今日はあたたかで天気もよかったので、昼休み、近くの川縁まで散歩に行った。途中で本屋に寄ったら、『バッテリー』のVI巻(最終巻)が文庫で出ていたので、買い、先ほど読み終わった。終わったなぁ。このシリーズは面白かった。楽しませてくれた。

瑞垣について、これほど念入りに描かれるとは思っていなかった。魅力的な登場人物だ。終わり方は、この作者にすれば万全であると思う。自分の力量と描きたいこととのバランスを量ったのだろう。しかし作品としては、作品の運動としては、横手と新田東の試合を正面から最後まで書ききるべきだった(『おおきく振りかぶって』のように)。書けるかな?

このシリーズを読みながら思ったのは、児童文学の領域の広がりと、限界だ。とても良く出来た小説だと思うけれど、児童文学の前提、限界を外すことはできない。それは「道徳」だ。

児童文学作家は、意識するかしないかは別にして、不道徳なことは描けない。人間は道徳と不道徳の狭間にいるので、人間を描こうと真摯になればなるほど、その境界が迫って来る。不道徳側から描こうと、道徳側から描こうと。

この小説では、野球という道徳的体育と、ボールを投げ・打ち・相手を倒す快感との狭間を描いている。快楽を追求した場合、極端に言えばチームワークやフェアプレーなどどうても良い。快感を追求すれば、どんどん獣に近づいて行く、オトムライの言う「責任、仕事、管理、立場、建前、世間」など、文化的なしがらみを脱ぎ捨て、ただ球が投げたいだけというシンプルな態度に収斂してゆく。

これを描ききろうとすれば、作者は児童文学という文化を脱ぎ捨てなければならなくなる。あさのあつこには、できなかった。少なくともまだ。

たぶんまともに延長すると、かなり「危ない」小説になったろうと思う。けっして爽やかでも、格好良くもない。個人的には、そういう世界を垣間見せてほしかった。