リッジレーサー4

ナムコ
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)
R4-RIDGE RACER TYPE4-


光文社の古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。すさまじい小説だ。登場人物が誰彼なく、ぎゃあぎゃあ喋るのがうるさいったらありゃしない。頭の中がわんわんいいそうだ。なんだか荒れ海を渡る船に無理矢理載せられたような、強靭な力でぐいぐいと引っ張られてゆく。『カラマーゾフの兄弟』自体については今更何をか言わんやなので、今回は読みながら考えた別の話をしよう。


先日、妻と、ストーリーの力、物語の力、というのは侮れないな、という話をしていた。

話は飛ぶが、リッジレーサーというレーシングゲームがあった。PlayStationを牽引してきたゲームの一つといっていいだろう。いまはグランツーリスモかな。そのリッジレーサーの4作目には、少し物語が入れてあった。

レーシングゲームや、フライトシューティングゲームなど単なる競争ゲームは、最初はゲームマシンのスペックにまかせて、華麗なグラフィックスや、リアルな迫力を、商品の売りにする。ところが、ゲームマシンのスペックが上がらなくなると、そういった見た目では勝負できなくなるので、時々、物語を入れて、それを味付けにして命を長らえようとすることがある。

こういうやり方は大体はうまく行かず。競争ゲームとしても中途半端、物語もありきたり、といった感じになってゲームとしては失敗作になる。

たぶんリッジレーサー4も、コアなレーシングゲームとしての完成度は高くないと思う。ゲームの人気自体は低くなかったと思うが、次の5ではストーリーシステムは姿を消した。

大まかなストーリーは、ゲームプレイヤーが新人ドライバーとして幾つかあるレーシングチームに所属し勝ち進むことで、チームを勝利に導くというものだ。チームのオーナーは、それぞれ屈折した過去があって、プレイヤー演ずる主人公が勝ち進む過程で、希望を見いだすようになっている。例えば、女性オーナーの「あなたの姿を見ていて、わかったような気がしたの」とかいうような台詞が出てくる。

まぁ、どの物語も、なんかどっかで聞いたような話で、個々に読んだら、飛行機の機内誌に載っているショートストーリーか、てな感じだと思う。レースの流れに沿って、複雑なテクニカルコースを連続優勝でこなしながら、最後のオーバルコースで優勝すると、それぞれのストーリーのエンディングに到達する。

オーバルコースでは、単純なトラックを数百キロのスピードで延々と走り続ける。複雑なカーブはないのだが、スピードがスピードなだけに、常に緊張感を維持し続けなければ1位にはなれない。

夜のオーバルコースを時速数百キロで延々と走り続けて、やがて来るエンディングに向かってひた走る感覚と、それまでに断片的に知らされてきた、レーシングチームオーナーの過去や、心情が重なって思い出され、やがて優勝とともにエンディングに連なるという記憶が、8年後の今になって、ふと記憶にもどることがある。

これが単に完成度の高いレーシングゲームならば、ここまで私の記憶に深く絡むことは無かったろうと思う。チープではあっても、物語がからんでいることで、私の中に絡まるようにして残っている。


また別の話として、最近、以前はゲームなどやらなかったような人々(主に大人)が、DSなどを使ってゲームを日常的にするようになってきている、という話を新聞で読んだ。ただ彼らがやるのは、反射ゲームや麻雀、どうぶつの森など、物語の無いゲームばかりらしい。

私が思うに、現代人には・暇つぶしと・コミュニケーションが必須だ。

が、物語は、必須ではないのでは、と思う。大人になっても、小説を読む人は、必ずしも多くないし、さらには、日常的に物語を読んでいるような、このMLメンバのような人は、かなり珍しい。

そこで思ったのは、物語というのは、効き目が遅い、とてつもなく遅効性の影響を与えるものだということだ。素早い効き目が欲しい人には、物語はいらないのかもしれない。

リッジレーサー4をやったのは、もう8年以上前だが、いまだに、あのオーバルコースを走っている時のプレイヤーの気持ちを憶えている。そのくらい影響力が深く長い。チープな物語でも、粘り強く、体験した人を縛り付ける。侮れないな、と思った次第だ。


そういう意味で、何年かに一度、読んでしまったがために、人生の、何年、何十年、下手をすると一生を縛るような小説に出会うことがある。そして『カラマーゾフの兄弟』はたしかに、私に消すことの出来ない影響を与える小説だ。