物語の遅効性の力


前回の「物語の力」の話は、良くわからないままに書き連ねてみたのだが、頂いた反応を聞いている内に色々と気づかされた。続けて少し書いてみよう。

物語には、すぐ効く成分と、ゆっくり時間をかけて効く成分の二種類が入っているということだろうか。風邪薬みたいだ。

即効性の成分が効いている例としては、韓流ドラマや、世界モノ、ストーリーマーケティングなど。集客力を高めるのに効いているのだと思う。私は、この即効性の力はリスクが大きく功罪あると思っていた。リッジレーサーについて書いたように、作品のグレードをチープなレベルに下げかねない。

例えば、ストーリーマーケティングに関して言うと、物自体の価値、有用性や、美しさ、美味しさなどは、比較的一般性を持つのに対して、付随するストーリーに魅力を感じるか否かは、人によって差が大きい。下手をすると安っぽい印象を与える。そのため、そのリスクに敏感な広告主は、付随させるストーリーを徹底的に厳選する。例えば、Appleのホームページで紹介される利用者ストーリーを見ると、ブランドイメージを向上させるよう細心の注意が払われていると感じる。

セカチュー(『世界の中心で、愛を叫ぶ』)が良かった、と言う人は多いと思うけれど、一方でまるで関心を寄せない人も多い(いまなら『恋空』か?)。韓流ドラマは大流行したけれど、しらふで考えれば、荒唐無稽なご都合主義でもある(チャングムに夢中になった私が言うのも説得力ないが)。また、多くの人にとって馴染みのある世界が描かれていれば物語の効果は比較的楽に得られるが、差異がなくなってしまう。逆に、馴染みの無い世界(例えばビジネスマンに、ファンタジー小説など)は、かなり敷居が高い。世界を広げるのはしんどい。特に年寄りほど。

それなのに、世の中にはストーリーがあふれている。商品があふれているので、なんとか差別化しようという努力だろう。テレビコマーシャルは小さな物語のオンパレードだ。最近、印象に残っているのは、ドコモ2.0、再春館製薬所リーブ21など、いずれも強烈だ。テレビのバラエティ番組や、ドキュメンタリー番組も物語を前面に押し出している。田舎へ泊まろう、ガイアの夜明けウルルンなど。あるMLメンバ言ったように、最近は物を買うと漏れなく物語が付いてくる。

でも私は高をくくっていたんだな。まぁチープな物語じゃないか、とか、良く聞く話だよ、とか。自分の生き方に深く影響を与えるほどのことはない、深く根を下ろすのは真の文学だけだ、とでも言うような。そう明示的に考えていたわけではないが、かなり甘く見ていたのは確かだ。

ところが、物語の「底力」とでも言うんだろうか。チープであろうが関係無く、自分をしばる。良質の文学だけが、生き方、考え方に深い影響を与えるのではなくて、物語でさえあれば、何にでも影響されてしまう。それも知らない内に。物語の二つの力の内、即効力の方は意識されるので、それを取捨選択するのは難しくないように思う。自分でシャットアウトする。ところが、遅効性の方は、深く静かに潜航して、私の未来を縛っている。

ところで、試しにWebで「物語の力」と検索してみたら一杯出て来て、その中に『博士の愛した数式』の小川洋子が書いた、プリマー新書『物語の役割』が良く取り上げられている。この本はなかなか興味深いことが書かれているのだが、小川氏も基本的に「物語の力」を肯定的に捉えて書いている。物語療法や幼児教育などを代表として、物語の力は一般に肯定的に捉えられていると思う。

が、私は、そう手放しには喜べないな、と思ったわけだ。ディストピア小説のようでもあるが、現代社会では、そこいら中に、びっしりと物語を貼り巡らしたような状態になっているように思う。市場原理の一種の現れかもしれない。表面的には優しげ、良さげ、毒無さげでは、あるが、その深く長い影響力を考えると、軽く考えるのは、ちと軽薄かな、と思う。古くから宗教は、布教のために物語の力を最大限に利用してきた。その功罪は言うまでもない。

「物語が無い」という静けさを、求めて選ぶ必要があるのかもしれない。