エラントリス 鎖された都の物語

ブランドン・サンダースン
エラントリス 鎖された都の物語〈上〉 (ハヤカワ文庫FT)エラントリス 鎖された都の物語〈下〉 (ハヤカワ文庫FT)


中三の娘から面白いから読んでみて、と言われて、多少しぶしぶ手に取ったハヤカワFTだ。読んでみて娘を侮っていたことに気付いた。軽いライトノベル風の異世界ファンタジーだと思って(タイトルからして、そんな感じ)読み始めたのだが、なかなか骨太で豪華な面白い作品だった。上下巻合わせて1000ページを越えるが、比較的短時間の内に読み終わった。

エラントリスというのは都市遺跡の名前だ。空高く聳える建築物や城壁に囲まれた都市だが、今は大量の汚泥に覆われていて、見捨てられている(ゴーメンガーストをイメージすると良いかもしれない)。そこには皮膚が灰色で髪の毛がない弱々しい人々がいる。彼らはもとは周辺に住む普通の人間だったのだが、何の前触れも無く突然、体中に痣ができて、髪の毛が抜けてしまった人たちだ。周辺住民はこの現象を、シャオドと呼んで忌み嫌っている。

物語はエラントリスのある、アレロン国の王子であるラオデンが、ある朝シャオドになってしまいエラントリスに放逐されるところから始まる。シャオドになった人間は心臓が止まってしまい呼吸も不要だが、猛烈に飢餓感がありさらに怪我でもするとその痛みが永遠に消えることがない。

小説では、このラオデンの話と平行にもう一つの話が語られる。政略結婚のためにラオデンのもとに嫁いできたサレーネと呼ばれる隣国の姫の話である。サレーネがアレロンに到着すると、そこでは旦那になる予定だったラオデンの葬儀が執り行われていた。

ラオデンの方では、エラントリスが何故滅んでしまったのか、シャオドとはいったいどういう現象なのか、治らないのか、といった謎解きと、エラントリスに打ち捨てられた人々の間の諍いと連帯が語られている。サレーネの方では、山を越えた隣国からの侵略、政治的、宗教的な駆け引き、貴族間の対立などが描かれている。当然ながら二つの話は途中から交錯して複雑に捻れほどけしながらクライマックスを迎える。

ファンタジーは魔法など超自然を扱う。そして登場人物はなんらかの問題に遭遇する。さて、ここで、その問題をどう解決しようとするか、解決するかが重要なポイントになる。魔法が使えるのだから魔法で解決することもある。しかし魔法は作者が都合良く作れるため、それをしてしまうと読者は夢落ちのような、がっかりを味わうことになる。

追いつめられた主人公が超能力を発動して、まわりの敵を薙ぎ倒すといったシーンは、アニメや漫画で良くお目にかかるが、これも同種であり、そろそろ使えないのではないかと思う。SFでも突然「こんなこともあろうかと...」と新兵器が出てくるのはギャグではありえても、もう流石に普通には使えないだろう。

なぜ読者が離れてしまうのかというと、読者が主人公の困難や、困難を解決した喜びを共有できなくなるからだ。ここがファンタジーを作る難しさだ。ファンタジーでは想像上の不思議を好きなだけ導入できるため、それらを作者が律して、読者も共感できる困難とし、その困難を読者も納得できる解決に導かねばならない。

この観点からいって、この小説は合格である。

このエラントリスという小説の面白さは、圧倒的にエラントリス内でのラオデンの生き方にある。客観的に見てラオデンの状況は悲惨だ。ここから彼は楽観的ながらも慎重に工夫をして戦い、仲間を集め、エラントリス内に共同体を築くまでにいたる。この彼の努力の過程そして仲間との信頼、友情がこの小説で一番魅力的だ。

特に、ラオデンが最初に出会った長身の飾らない男、ガラドンとの深い信頼関係は、私にこの本を読んで良かったと幾度か思わせた。他にも、夫と小さな子供を街に置いたままシャオドになってしまった女、かつては彫刻家だったがシャオドになって貴族のふりをして暴力団を率いている男、汚泥にまみれたエラントリスを少しずつ掃除して清潔な場所に変えようとする元掃除夫の男など、印象的な人物が多数出てくる。

これに対して、サレーネの側の貴族たちや僧侶達の政争に関する話は底浅く、それでいて複雑な人間関係になっていて多少興ざめである。話の進行上必要であり、また面白く書いてあるので読むのに苦労はないが、夢中になって読むといった魅力は残念ながら感じられなかった。

またサレーネは頭が良く男勝りで身長が高く行き遅れた女性として描かれている(この小説中では三回婚約して一度も結婚できずにいる)。彼女は高い能力があり危機に瀕した貴族社会に変革を与えるのだが、どうも彼女の意図が裏目裏目にでる。そのため狂言まわし、それも多少程度の低い狂言まわしといった印象がしてしまう。それが多少辛かった。

貴族社会の話に魅力が薄い理由のもう一つは彼らがみな成り上がりで多くが私利私欲でしか動いていないからでもある。ノーブレス・オブリージュや武士道に相当する、高い身分に伴って生じる倫理観・義務感が彼らにはほとんどない。そのため貴族であるのだが人間の精神の気高さといったものが欠落した底浅い人物像になってしまっている。王制を設定に含むファンタジーの場合、こういった倫理観が作品世界の心棒として大変重要である。『指輪物語』しかり『ゲド戦記』しかり。残念ながら、この作品では意図してかどうかわからないが、そういう要素はない。

さて、この小説が安心して楽しめるのは、かなり緻密に作られた作中世界の力によるところが大きい、作者は多数の伏線をちりばめて作品をしっかりと構成していて、それらがいずれも上手く噛み合っているのは見事だ。とてもデビュー作とは思えない。オースン・スコット・カードがベタ褒めしたらしいが、さもありなん。

クライマックスは、ハイウッド映画のようなスリリングで豪華なものになっている。良く出来ているし、ちゃんと終わらせている。ただ、私には、こういったクライマックスは、どうでも良いと感じたのも正直な感想だ。私がクライマックスに大して関心しなかったのは、娘にとっては多少不満のようではあったが、さすがに多量に小説を読んできた四十男と、物語の楽しみを知り始めた中三とでは、何を楽しむかに違いはあるだろう。

何にしろ、ここ数日比較的オーソドックスな、上質のファンタジー小説を読む楽しみを味わえたのを娘に感謝しよう。