東京奇譚集

村上春樹
東京奇譚集 (新潮文庫)


実を言うと、村上春樹を最後まで読み通したのは初めてだ。以前『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』を友人から薦められて、半分まで読み挫折した経験がある。その後も、数ページ読んだ小説はいくつもあるが、読み終わった事が無い。読まなかった理由は良くわからないが、単に遠かった。

そんな中、この本は出版された時にかなり気になった。毎日新聞の書評でも好意的なレビューが掲載されていた。東京を舞台に、「不思議な話」を描いた5つの短編から構成されている。ディケンズ、鮫、石、マンションの階段、名札と猿がそれぞれのキーだ。私は、まぁ言ってみれば、不思議小説愛好家、なので、その職業意識(?)から気になったのだが。文庫化されたのを機会に購入し、大阪までの出張の行き帰り、ほんの数時間で読み終わった。

最初に印象的だったのは、文章が見事に彫琢されていることだ。気負いの無い、何気ない文章だが、隅々まで心配りがなされていて、現代の文豪というにふさわしい。さらさらと、岩清水のようにのどを潤しながら、体にしみ込んでゆく。

次に登場人物の、頭の良さ、が印象的だった。学歴が高い、とか、勉強ができるという意味ではなく、ものごとを深く、かつ素早く、正確に考えることができる、という頭の良さだ。どの作品にも、こういう頭の良さの目立つ登場人物(おおむね主人公)が描かれている。それを読みながら、なるほど、こういう見方があるのか、たしかにそれは正鵠を射ているな、と思い、多少のあこがれと同時に、自分の身辺から少し遠い印象を持った。

そして、描かれている不思議についてだが、まずファンタジーではない。彼自身作品の中で自分がオカルトなどに全く興味が持てないプラグマティックな人間であると書いている。彼の文章には、人間の合理的思考への信頼、とでもいうべき素性の良さが鮮明に現れていて、さもありなんと思う。

ファンタジーを好んで描く作家は、多くは自分の夢想に心の半分を持って行かれている。逆に、それが鬱陶しく感じることも多々ある。私の好むのは、体の半分どころかほとんどすべてを夢想に浸されながら、それでもぎりぎりの合理的思考で、世界に自分をつなぎ止めようとする作家だ。まぁ、この話は別の機会に。

そういうファンタジーとは縁のない村上春樹が描く不思議とはどういうものか。それを見事に表すのが、冒頭の短編の前書きに書かれている、彼自身の経験談だ。ほんの数ページなので実際に読んで頂いた方が、味わい深いのだが、説明の都合上、簡単に要約する。

彼が有名なジャズクラブで、マニア好みのあるジャズピアニストの演奏を聞いていた時のことだ。そのピアニストの演奏に、村上はかなり私淑しており、すり切れるほどレコードを聞いているのだが、その日の演奏は残念ながら生彩を欠くものだった。彼は最後の曲を聞きながら、残念だなと思いながら、頭の中で、ここでそのピアニストが、あの二曲を演奏してくれたら心残りはないのに、と妄想していた。その二曲はピアニストの十八番というほどのものではなく、これまた一部の愛好家が好む渋い選曲で、当然、演奏を生で聞けることなど期待しようがなかった。ところが、最後の演奏が終わったすぐ後に、何故か、その二曲を続けて演奏してくれたのだそうだ。それも抜群に見事な演奏で。

単なる偶然、ただ天文学的にあり得ないほどの確率の偶然、それが村上の人生を、彩ってくれる。彼がこの本で扱う不思議は、おおむねこの路線である。基本的に自分の力で生きている、自分で考えて問題を解決しようと努力している人に、訪れる不思議、彼らの生活を破壊したり、極端に押し曲げてしまうほどの力はないが、確実に心に深く届く影響を与えて去ってゆく。そういう不思議を描いている。

もう一点、どの短編も、私が良く読むタイプの小説とは異なる、ある「運動」を持っている。それがたぶん彼の持ち味でもあると思う。読んでいると、不安定とまでは言わないが、多少曖昧な揺らぎを伴った歩行に似た形で、話が進んでゆくのを感じる。けっして駆け足になったり、逆に止まってしまうのではなく、かなり律儀に歩みが進んでゆく。そして、あるポイントに来ると、ストン、と落とされる。階段を一段踏み外したような、ストン、と落ちる感覚だ。その後は、またそれまでと同様のリズムで進んでいるが、確実にゆらぎが減っており、確かな足取りになっている。

私が好むのは、途中で、すーっと引き上げられるタイプの作品だ。視野に別の次元が入る。以前「平面からの離脱」という言葉を使った。垂直に伸び上がる、新しい軸、そのためには、単なる偶然であってはならない。理屈がつくか否かは別にして、ある意味、その瞬間は信じられる新しい事実でなければならない。そうであって初めて、垂直に新しい軸が現れ、世界が広がる。

この短編集に描かれているのは、それらとは見事に対照的な、ストンと落ちる不思議小説である。これはこれで面白い、また味わい深いと思う。村上には、彼が生きている世界に対する、深い信頼、もしくは信頼を持つべきという信念があるように思う。