ホワイトヘッドの哲学

中村昇
錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だったホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)


じゃぁ、人間の眼は簡単にだまされる、オンボロなのか、というと、話はそう単純ではない。

例えば、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫色に反応する眼を持っていたとする。そうすれば、もっと正確に色を見ることができる。ところが数が増えると色々と問題が出てくる。

まず、今の人間と同じだけ細かく見えるようにするには、2倍以上の細胞を詰め込む事になるので、目を巨大にしなければならなくなる。それから今は3つの信号を処理すれば良いのが、7つの信号を処理しなければならなくなるので、脳に大きな負担がかかる。

どうやって人類がこの三原色の視覚になったかには色々説があるようだ。いずれにしろ、生きてゆく上での色々な条件のバランスで、こうなっている。

三つの値だけで色を判定するという単純な仕組みになっているおかげで、人間は素早く色を見分けることができる。この素早さが大事だ。(それでも音に比べるとずいぶん遅いのだが)

『錯覚する脳』という本には、この「視覚は一種の錯覚」という話をもう少し広く書いてある。極端な言い方をすると、世界自体に色があるわけではない。色は、人間が見るから色となるのであって、世界にあるのは電磁波(でんじは)という波だ。電磁波のとらえ方には、色々な方法があって、人間の場合は、ある波長の電磁波に反応する三種類の細胞を、目玉の中ににちりばめてとらえている。

つまり、人間がいない世界には色が無い。世界にあるのは反射している電磁波であって、色は人間の目によって得られた信号を読み解いた、脳の中にだけある。

ところが、私たちは、身の回りの物、生き物に色が貼り付いているように感じられる。そのように世界を把握(はあく)している。頭の中にあるようにではなく、手に持ったリンゴが、赤い色をしているように見える。見事なイリュージョン(錯覚)だ。

これは聴覚や触覚など五感すべてに言える。

触覚は、皮膚(ひふ)のいくつかの細胞が起こした擦(こす)れ具合や、尖(とが)り具合、押しの強さといった反応を、脳が組み合わせて読み解いて得られるものだ。ところが私たちは、指の腹に何かがある、と感じる。長い経験を積んだ職人などは、指の腹の感覚だけでミクロン(1ミリメートルの1万分の1)単位の加工をする。これはまるで、遠い場所にあるロボットを操縦(そうじゅう)している人が、まるで自分がその場所にいて何かを触っているように感じながら、ロボットで針の穴に糸を通すというような話である。

ところで、『錯覚する脳』と一緒に読んだ『ホワイトヘッドの哲学(てつがく)』という本に書かれていた、ホワイトヘッドという人の考え方には、この話と良く似た世界の捉え方が書かれていた。あまりにそっくりなので驚いた。

ホワイトヘッドによれば、世界には変化があるだけで、その変化を見ている人も同じくその変化の中にいる。モノが見えたり、感じたりするのは、その変化を形の決まった、実際にはない、ある捉え方で捕まえることだ。三原色のように。(なお、ここで使っている用語は私流に適当である。ホワイトヘッドの使った本来の用語は注意深く特殊である。)

三原色だけでなく、電磁波も、それは電磁波、という捉え方をしたから、電磁波として現れたにすぎない。人間がそうやって捉えようとしたから、電磁波という姿で現れたのだ。人間の目がそうしているように色という捉え方をしたら、色として現れる。実際には、さまざまに変化しつつある世界があるだけだ。

要するに、私たちを取り巻く世界は諸行無常(しょぎょうむじょう)であって、変化しつづけている。さらに私たち自身も変化しつづけている。しかし、単に変化しつづけている、というだけでは、生きるのがしんどい。次に何もできない。次を考える事ができなくなってしまう。だから、無理やり形を決めて考える。

私たちは、決まった形の窓を通して世界に触れている。窓から入ってくる微かな信号に鋭敏に反応しながら、色や音に満ちあふれた世界を作り上げている。

ビオラが奏でる和音の音色、桜の落ち葉の深い赤、子供の手の柔らかさ、マンデリン珈琲の香り、それらはすべて、頭の中にしかない錯覚だが、いずれも窓から入ってくる世界の断片を伝える信号をもとに、作り上げたものだ。それら断片は私たちが、この世界で生き抜いてゆくために選び出した重要な鍵である。無駄なものはない。私たちが感じるすべてが鍵なのだ。