『土曜日』

イアン・マキューアン
土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

大分に行く時、羽田で買った。本には出会いってのがあるんだと痛切に感じさせた一冊。これはすごい。

ロンドンに住む、ある脳外科医の土曜日一日を描いた本。ちょっとググればわかるように、多くの人が影響を受けている。340ページ、厚さ2.5cmの単行本は分量的にも良い感じだ。

最近になってやっと気付いたのだが、この、横13cm、縦19cmという単行本サイズは、視野を塞ぐのに丁度良い。文庫本は持ち運びに良いけれど、小さいので小説の世界にゆったりと入ることが難しい。1ページに納められた量も少ないので、ページを始終めくらなければならないというのも忙しない。そのため文庫本で読んだ話は、話の内容と無関係に多少窮屈な印象が残っている。それにくらべて、単行本で読んだ本は、ゆったりと足を伸ばせる風呂に入ったような余裕がある。

主人公の脳神経外科医である中年男性は、優れた頭脳と技術を持った人物であり、プラグマティックに大量の思考を巡らせる。そしてそれが、そのまま字になっている。これを読むと、人間がたった一日の間にこれだけ膨大なことを考えるのか、と驚くが、自分を振り返ってみれば、たしかに、かなりくだらないことまで含めて人間は大量に頭の中で言葉を巡らしているのだとわかる。ただ、私のくだらない脳内と違って、この主人公の脳内は読むに耐える。いや、彼の思考を辿ることで、自分まで優秀な脳神経外科医になったかのような仮想体験を得ることができる。

その彼が、朝4時の張りつめた不安の予兆から出発して、小さな偶然からいくつかの困難に立ち向かうことになる。そして事件が起きる。幾重にも重ねられたプロットがポリフォニーのように読者に響いてくる。

音楽をやっている息子、詩人として売り出し中の娘、弁護士の妻など、家族の描写も魅力的で良く雰囲気が伝わってくる。扱いが難しい年頃の息子とのシーンは、物語としては静かな、それほど重要ではない部分だが、私にはとても印象的に残っている。私自身の父とのコミュニケーションの微妙さや、父親としての自分に重なるところがあるからだろう。登場人物たちが、それぞれ自分の考えで、いろいろなシチュエーションにいて、その時々に相互にコミュニケーションを取るという日常、気分の微妙な違い、気持ちのズレ、修復、破綻。

全編を通じて現代的なコミュニケーションの物語である。金のあるなし、才能のあるなし、体力のあるなし、運のあるなし、与えられた状況の中で、みな生きようとしている。