ぼっこ

富安陽子


本屋でおはなしの本を手にとってみる。ときどきそれを持ってレジへ向かう。金を払って手に入れる。どういうときに手に入れたいとまで思うだろう。そのときの気分やそれからの時間の使い方によってちがう。新幹線で大坂まで行く前などには買ってしまう。時間をつぶしてくれれば良いと思う。のんびりとするのも良いのだが、どうも時間にせこくて、ついいつもは買わない雑誌などを買ってしまう。ただそれで後悔したことはあまりない。もっといえば本を買って後悔したことはほとんどない。あまり楽しめなかった本でも、ちっとも読了できなかった本でも、買って損をしたとまでは思わない。もとから本に対して甘いのだ。その甘さが財布の紐をゆるめる。

だから雑誌やベストセラーしかない本屋の日常から遠征して、好みの本が揃った本屋に出向いた時が、危ない。ひさしぶりに行ったクレヨンハウスは危険な本屋だった。なんとか1万円以内に押さえたが。

そのときの一冊がこの『ぼっこ』、作者は富安陽子、お気に入りの一人で、その新作だ。彼女の『クヌギ林のザワザワ荘』は、最近むすめが寝る前にすこしづつ読んで聞かせている。すこしづつゆっくり。『ぼっこ』は座敷童子のはなしで、ざしきぼっこのぼっこだろう。表紙と中の挿し絵は瓜南直子という人だ。勢いのある絵を描く人で、ぼっこの絵はなかなか良い、ただ全体として丁寧さに欠けるように思う。もう少し考えて描いて欲しい。挿し絵の何枚かは、首をかしげるできだ。この表紙だったのでクレヨン・ハウスで手に取った時も買うつもりはなかった。

表参道のクレヨンハウスにはテーブルと椅子があり座って本が読めるようになっているのだが、そこでしばらく時間をつぶすつもりで手にとった。ページをめくると、稲生という関西の田舎に住む主人公の祖母の葬式だった。いやみのない、作りの少ない、すっと入る文章が、この作者の特徴だ。するすると読むうちに私は奥座敷で、いがぐり頭の背の小さい開襟シャツの男の子、『ぼっこ』と出会っていた。この瞬間、家に帰ってゆっくり読みたいと思った。

富安氏の話の中に出てくる化け物どもはみな日本の古い妖怪にオリジナルがあるのだが、一旦作者の中で落ち着かせて自分のキャラクターにしてから登場させている。この落ち着かせ方が丁寧で作中に静かに沈んでいるがために、妖怪物語ではなくファンタジーになっているのだ。私にはこのスタイルは大変独創的と思える。

日本には妖怪物語を扱う作家がけっこういるのだが、水木しげるら多くの巨星がおり、妖怪のイメージそのものが、古典や伝承に基づく彼らのイメージによって縛られている。その線で行く限り妖怪はあくまで彼岸の存在であり、我々の日常の現代社会、科学信仰の世界と共存できない。かくいう私自身もそこを何とかした話が書きたいと四苦八苦しているのだが、いまだ解が見つけられずにいる。富安氏のスタイルは、それを彼女独特の仕方でかろうじてクリアしている。

『ぼっこ』に戻ると、その意味で田舎に引っ越した都会の少年という古典的なシチュエーションは、少し後退と言えるかもしれない。しかし問題はシチュエーションではなく、アナクロでない心の問題を扱っているかどうかだ。その意味で心理を丁寧にすくった本作は着実な一歩と言って良いだろう。ただ終わり方はいまひとつだ。作者の中に解決がないのだろう。すっきりとした終わり方は期待できない。今後のさらなる飛躍を期待したい。


2000/5/5
few01