どら平太

市川崑監督


こいつはいいぞ。時代劇だ。おやじに見てもらいたいなぁ。痛快だ。絵も役者もいいね。特に主役の役所広司がいい。鶴太郎もいい。猫八さんもいいね。あえて言うなら、浅野ゆう子はもう一歩、うじきつよしは出なくて良い、というところか。ちょっぴり挿入されたお約束も、まぁゆるせるレベルだが、できればもう少し考えて欲しかった、ギャグのレベルはぬるい。特に最後のはちょっとな。客のおじさんたちは大声あげて笑っていたから商業的にはあれで正解なんだろうけど。

山本周五郎の原作を、黒澤明 木下恵介 市川崑 小林正樹の四人が脚色し、それを市川崑が撮った。スタイリッシュな映像と、無駄のないストーリー、どら平太の紺絣に黄帯の粋な姿、鶴太郎の四角四面の羽織姿、いいねぇ。殺陣のスピード感と力強さは現代の映像だ。また台詞の切れの良さも現代のものだ。古い時代劇映画の良さに現代映画のスピード感、リズムを加えている。市川崑もまだくたばっていなかったか。

あぁ、そうだ。忘れちゃいけない。岸田今日子がいぃところに出ている。

ピンと来た人はいますぐ映画館へ急げ。以降は蛇足だ。

以前から時代劇のファンタジー性(以下fと略)について考えていた。俺にとって時代劇のいくつかは実に明快にfを感じさせてくれる。架空であるのがわかっていながら、まったく現実ではないのに、そうだと信じたくなる、そういう現象だ。

時代劇には妖精やドラゴンは登場しない。魔法の指輪も、聖なる剣もない。しかしもちろんアイテムがfを生み出すのではない。時代劇はまるっきりの嘘だ。少なくとも嘘であることが前提になっている。それが重要だ。

ドラマは基本的にすべてフィクションであるが、嘘の扱いにいくつかのスタイルがあり、大きく二つに分けて考えることができる。「じつは嘘じゃない」というスタイルと、最初っから「そんなの嘘に決まってる」というスタイルだ。

では後者はどれもfを含むのかというともちろんそんなことはない。fが立ち現れてくるには二つの要件がある。一つは文法であり、もう一つは制作者側の思想・姿勢だ。

ベースは嘘であって、つまりリアルを指向していないのに、観客はどうやって楽しめるのか、というと、少なくとも映画を見ている間は、思わず体が反応してしまうような臨場感があるからだ。

それはメディアイクエーション、つまり人間が持つメディアを現実と混同してしまうという性質による。テレビにポップコーンが写っている時に、テレビをひっくり返すとポップコーンがこぼれてしまうように感じる性質だ。画面向こうからボールが画面に向かって飛んでくれば、思わずからだをよけてしまいそうになる。そういう性質だ。この性質は、いくら理性で理解していても勝手に体や気持ちが反応してしまう、というのが肝心な点だ。

このイクエーションを最大限に発揮するために、長年培われて来たのが映画の文法である。映画は平面で、枠に区切られており、現実ではありえないシーンの変わり目(カット)が存在する。そこに臨場感を効果的に演出するために、様々な文法が存在する。我々はその文法をよすがに映像を解釈しているのだ。文法は歴史であり、洗練されてきたスタイルに集約されている。

したがって、この後者の、つまり「そんなの嘘に決まってる」作品では、スタイルが大きく重要となる。スタイルが客と映画を繋ぐ命綱になっているのだ。典型的な語り口を大事にするのにはそういう理由がある。

次に、制作者側の思想・姿勢だが、これはつまりはfの発現を志向しているか否かという単純にそれだけのことだ。架空であるのだから、最初から文法に甘えて作品を作ることも可能だ。全くfを志向せずに。それでも客はそれなりに喜んでくれるものだ。テレビでの時代劇はほとんどがそのレベルだ。これはファンタジーアイテムさえ出していれば売れるライトノベルと同じだ。

fの定義で肝心なのは、「そうだと信じたくなる」という点にある。これは希望だ。希望は単に体や表面的な感情が刺激される程度では生まれない。様々な要素が細かく自分自身の心と体を刺激し、理性までも動かさなければ生まれない。

そのため明確にfを志向した制作者たちは、極端に完璧主義になってしまう。架空の基礎の上に、一つ一つ石を組み上げて行くように。


2000/6/6
few01


2003/4/28追記
役所広司は色気がないので物足りない、という意見の人がいた。たしかにそうなんだが、渡哲也のはぐれ雲のような、妙な清潔感みたいのも、これはこれで味の内かな、と私は思った。