三宅興子『おばあさんとひこうき』評を読んで


児童文学書評サイトにおいて、以下の評論を見つけ、なかなか興味深い議論が展開されているので、感想と反論を書いてみることとした。

おばあさんのひこうき』三宅興子「日本児童文学」1978/03(特集 佐藤さとるの世界)第24巻第3号
http://www.hico.jp/sakuhinn/1a/obaasannnohi02.htm

これは『おばあさんのひこうき』など佐藤さとるの幼年向け代表作を分析した評論である。構成は以下の通り。

・母親学級で『おばあさんのひこうき』を取り上げた時の体験 (1)
・神宮輝夫による『佐藤さとる論』の要約 (2)
・神宮説と作品との矛盾を示す議論 (3)
・「おばあさん」が記号でしか無い、という批判 (4)
・ピアスの『コクルばあさんのネコ』の要約と、それとの対比 (5)
・佐藤によるその他の幼年童話の分析 (6)
・まとめ (7)
(番号は堤による)

評者が指摘する問題点は、佐藤が作中のモチーフを作者の固定化した主観に基づき軽々しく扱っている、という点だと言って良い。

例えばその指摘は、「おばあさんのこれまで歩んできた人生の重味が全く感じられないところにその原因がある」(4より)や、「秘密をもつということは、人間の成長につながってくる事柄だと思うのだが、ここでは、それほどの強さがない。」(6より)、「大きい木がほしい、だから植えるというのだけれども、ここでもはっきりと大きい木になるまでの時間の経過と、そのいのちに対する思いがない。」(6より)などと書かれている。

つまり評者は、「おばあさんが歩んできた人生の重みを感じたい」のであり、「人間の成長に繋がるような秘密の取り上げ方をしてほしい」わけであり、さらに「木の命に対する思いのこめられた作品が読みたい」と言っているわけである。

さて評者がそのように希望するのは全くの自由なのだが、それらは果たして佐藤作品の欠点なのだろうか。例えば、おばあさんの人生の重みが感じられるような「おばあさんのひこうき」が面白いのだろうか。たしかにフィリッパ・ピアスの作風ならば、その方が良いだろう。しかし佐藤の作品にそれが無いのははたして欠点なのだろうか。

ちなみに、私はここで取り上げられている神宮論文を読んでいないので、それが的外れなのか、それとも評者による誤読なのかは判断できない。しかし、それはここでの分析には関係がない。

少し視点を変えてみる。たとえば谷川俊太郎の詩は、少なくとも私には人生の重みとか、命に対する思いとか、成長に繋がる秘密、といったような「わかりやすい」意味は感じられない。それでも彼の詩の魅力は疑いようもない。なお、佐藤の作品は谷川に比べればずいぶん甘くはあるが、やはり同じくそういった重みからは遠いように思われる。

誤解を恐れずに言えば、小説には大きく二種類あると思っている。重い小説と、軽い小説である。重い小説というのは、捕われている小説という意味である。何に捕われているのか、というと何か作者自身ではない、しがらみのようなものにである。

例えばプロレタリア文学のようにドグマに捕われている小説は、重い。もちろん重いからつまらないとは限らない。また、一見軽いように見えて実は重いものも多い。例えばライトファンタジーは、それまで使われてきて手あかのついたアイデア・アイテムを反省なく使って平気のようだが、それもまた捕われている、重い小説群だ。沈澱してしまっているとすら言える。

もちろんだが、ここでの「重い」は、人生の重み、という時とは意味が違う。人生の重みを感じられる軽い小説はあるだろう。もしかするとピアスの『コクルばあさんの猫』は、そういう作品かもしれない。読んでいないのでわからないが。

さてここで考えるのだが、児童文学には「人生の重み」や「命に対する思い」や「成長に繋がる秘密」などが描かれるべきだ、というのも一種の固定観念ではないだろうか。もちろん、児童文学は「満月で照らした静かで美しい風景」を描くものだ、というのも、別の固定観念だろう。

そして佐藤の作品は、そういった固定観念、評者によれば特に後者の固定観念に捕われているだろうか。つまり重い作品になっているだろうか。私にはどうひっくり返してみてもそうは読めないのだ。

おばあさんのひこうき』はいくつか妙な点を含む作品である。特にこの評論の中でかかれているように、終わりが不思議である。何故おばあさんは編み物をやめて団地にひっこしてしまったのだろうか。しかし、それは「未来へのパースペクティブは驚くほど欠除している」のか、というとそんな問題ではないだろう。私も子供の頃に読んだときに、やはり妙な感じを得た。しかし、それは作者が「親と子がともにくらすという家庭主義的解決をもってきてしまった」と言うことなのか、というと、これまたそんな単純なことではないように思う。

私には、何か突き放されたような感じが、おばあさんに突き放された感じがした。これは決して安定した終わり方ではない。表面上安定しているように、構成上安定しているように見えるが、大きな空白の中に終わっている。

佐藤さとるの作品には、結婚して、もしくは結婚が暗示されて終わる作品が多い。これは「おじいさんとおばあさんは末永くしあわせに暮らしましたとさ」というような昔話風な終わり方を彷佛とさせるのだが、実は必ずしも正確にそれをなぞっていない。

佐藤は日常の中に隠し持たれている不思議の力に敏感である。この「隠し持たれている」という所が肝心なポイントだ。どういう風になっているかというと、作品が二階構造になっているのだ。

まず我々の生活に近い一階から話がはじまる。そしてなんらかの不思議に出会い、作品は大きく飛躍する。そして飛躍が終了し、終わりを迎える。ただし見た目には違いがないが同じ場所ではなく、二階に移っている。この一階と二階の間に「隠し持たれた不思議」がある。

彼は、この登場人物が得た「隠し持たれた不思議」に固執している。これこそがファンタジーがもたらしてくれる意義である、と主張しているように思える。自分が自分であり、それ以外の他人ではないという自我を補強する重要な要素、それがこの「隠し持たれた不思議」だと言っているようだ。

おばあさんのひこうき』の中のおばあさんは、その不思議を得たので、別の人格になってしまったのだ。だから、どこであっても団地であっても生きられる力を得たのだ、と。団地で親子一緒に暮らすことに意義がないとは言わないが、それよりも、おばあさんは二階の世界に上がってしまった。ある意味で選ばれた人になってしまったのだ。

それが私に「突き放された」ような感じを与える。読者の私にはまだ持ち得ない「隠し持たれた不思議」を持ってしまった、別の世界の住人になってしまったからだ。さらに言えば、おばあさんにはもうファンタジーはいらないのだ。くやしいかな。

佐藤の作品は飽かずに、こういう「選ばれた人々」を描き続けてきた。彼等はみなやさしく、直裁で、意地悪さから遠い。なぜか。それは我々「選ばれなかった人々」とは違うからだ。我々が持とうとしても、たぶん絶対に持ち得ない「隠し持たれた不思議」を所有しているからだ。だから、やさしくなれる。

おばあさんのひこうき』に限らず、彼が書き続けるのは全く同じモチーフである。それはテクニックに弱い画家が同じモチーフを飽かず書き続けるのと似ている。彼はそこに集中しようとは考えるが、別のモチーフを書こうとは思っていないようだ。たぶんいくら書いても書ききれない興味が、その二階構造にあるからなのだろう。

それは佐藤もまた、我々と同じく一階に住む者だからなのではないか、と思う。彼にとって、二階に住む者への憧れを抱き続けること、その憧れが「隠し持たれた不思議」に唯一匹敵しうる自我の心棒なのだ、たぶん。

そうであれば「人生の重み」や「命に対する思い」や「成長に繋がる秘密」などは関心の外、少なくとも彼が創作で取り組むべきとは考えていない対象だと考えて無理はない。彼の目的は明確であり、それに最小限必要な要素だけを作品に盛り込めば良いし、逆にそうでない無駄な要素は削るのが、真面目だが不器用な作者として当然である。

そしてその頑さ、モチーフへの固執が、実は佐藤の作品の普遍的な魅力を生み出しているのはないかと思っている。もし彼の作品が、「人生の重み」のようないわゆる文学的主題にも絡むような作品であったらなば、これほどに純粋に二階構造のみが際立つようなものにはならなかっただろう。『おばあさんのひこうき』は1969年の作品で、すでに30年以上を経過しているが古びていない。それは『おおきなきがほしい』にしても同様で、古びる要素を持たないのだ。何故かというと、それは彼がファンタジーが構造的に持つ命題に取り組んでおり、それ以外に見向きもしていないからだ。

時代背景や当時の流行、広く求められる生活上のイデオロギーを取り入れた作品であったなら、その点に関しては古びるかもしれないが、彼にとっては無駄なそのような要素は一つ一つ丁寧に毟って、無骨に仕上げているがために、古びないのだ。それは、この三宅氏による評論(1978年執筆)が、言い様も無く古びているのと対照的である。


2002/5/15
few01