弥勒

篠田節子


ハルモニア』を読んで以来、気になる作家の一人で、ぜひとも『弥勒』は読んでおきたいと思っていた。『ハルモニア』はかなりできの良い面白い作品(SFもしくはファンタジー)なのだが、最後あたりの決着の付け方がまずく消化不良の感が強かった。しかし相当に力量のある作家で、こんなものではすまないだろう、という印象も持っていたので、ぜひとも代表作の一つである本作を読んでみたいと思っていたのだ。中身のことは実は何も知らずに読んだ。これだけ分厚く(文庫本で3cmほど)、それでいて本屋に良く並んでいるのだから、つまらないはずはない、という確信があった。購入したのは福岡空港の本屋だ。

何度か食欲の失われる思いや、実際に腹が痛くなる経験をしながら読み終えて、ほっと一息ついている所だ。すさまじい話だった。逃げのない、すごい話だ。それでいて恐ろしいことに読み進めるのに苦労がない。これはやはり面白い、ということなのだろう。素直に面白いと言えないのは話が話だからだ。

ネパールやブータンあたりのパスキムという架空の小国が舞台である。現実に、明日にも戦争が起こりそうな地域だが、このパスキムでクーデターが起きる。主人公は新聞社につとめる男で、新聞社主催の美術展を企画するのが仕事だ。その彼のパスキムでの体験が描かれている。

構成上興味深いのは、主人公が様々な価値観の間を翻弄される点だ。それは大きく二つの主軸を巡ってなされる。一つは政治に関するもので、狭くは王制および西欧近代社会と完全平等社会の間である。もう一つは美意識に関するもので、単純化すれば「弥勒」の美を肯定するか否かである。

私はいま日本にいて、忙しい生活を送りながら、そういった主義主張に関する選択に関しては、ぼんやりとした状態である。スターバックスのコーヒーと、ドトールのコーヒーのどっちがおいしいか、とか、ラーメン屋はどこがおいしいか、とか、そういった嗜好に関しては、妙に細かな選択を毎日しており、それらに忙しいとすら言えるかもしれない。よくわからないから、判断を保留する。どちらとも言えないから、多数決に頼る。うさん臭いので近付かない。それが許される状況にある。

実は主人公もそういう私と同じ状況にあったのだが、それがパスキムでの過酷な状況におかれることで、考えざるを得なくなって行く。作者の周到なしつらえによって、読者である私も考えざるを得なくなって行く。不明のために判断保留にしていた分岐点が、状況が進行するにしたがって先鋭化され逃げ場がなくなる。右か左か、さもなくば即死か。救いとは何か、救いはあるのか。彌勒はその象徴、五十六億七千万年後の救い、である。

意識して選択した訳ではないのだが、別の所でやっていたユートピア論と図らずも奇麗に重なる本だった。生きるというのは、何かを殺すことでもある。そしていずれ私も死ぬ。弥勒の救いまで至るそのほんの瞬間の出来事、私の人生にどういう選択が意味を持つのか、殺さないことに、殺すことに。

この小説には何も答えがない。


2002/5/26
few01