えんの松原

伊藤 遊


Oceanさんから借りた本の中に、あの『鬼の橋』を書いた伊藤遊の第二作である『えんの松原』が入っていた。これも本屋で何度も手に取って読むのを迷った本の一つだ。『鬼の橋』が面白かっただけに二作目には期待と不安がないまぜになる。外されたらショックでかいな、なんて思ってしまう。というのも児童文学系の作家にはその才能をうまく伸ばせずに多作を重ねる作家が少なくない。児童文学の文壇というのがあるのか知らんが、その文壇や出版界がうまく作家を成長させるように機能していないのではないかと思う。


しかしうれしいことにその心配は全くの無用だった。


『えんの松原』はあいかわらず地味な装丁で、茶色を基調とした月夜に黒い鳥が描かれた無気味とも言えるキャッチーさに欠ける表紙だ。タイトルも地味で「えん」は怨恨の「怨」を想像させるので暗く薄気味悪い感じさえただよう。各章のタイトルや文体も地味で派手やかさから遠い。(さらに帯には何を勘違いしたかホラー小説のようなコピーが...)


こういった特徴は子供達が手に取るのに敷居が高いだろうと思う。少なくとも私が小学生なら手に取らない。損をしていると思う。ただ前作同様、ロングセラーになるのは間違いないと思う。構成も内容も良く、そして何よりエンターテインメントとして良くできていている。


舞台は平安朝の京都、藤原氏が宮中に権勢を誇っていた時代である。主人公は音羽という。本当の名は音羽丸で男の子なのだが訳あって女装し音羽と名乗って宮中で下働きをしている。もう一人の主たる登場人物は憲平という皇子である。彼は呪(のろい)にかかっており余命が長くないと言われている。ストーリーはこの呪の正体を見破ろうとするミステリー仕立てになっており、先へと読みすすませる。


私は呪いとか怨霊とかのどろどろした感じが嫌いで、そういう本は思わず避けてしまうのだが、この本は良かった。全然どろどろしておらず、プラグマティックとすら言える態度で怨霊話を扱っている。伊藤氏の持ち味だろうと思うが、情景表現が具体的で短い文章からすーっとイメージが湧いてくる。怨霊は扱っているがホラーでは全くないので、誇大な表現や読み手の不安感をいたずらに掻き立てるような表現は一切無い。そしてこれは重要だと思うのだが、太田大八の飄々とした挿し絵がいい味を出している。前作でもそうだったのだが、扱っている内容が心理学的なので「しかつめらしい」雰囲気になりかねないのだが、それを彼の挿し絵が少し離れた所から第三者的にコミカルに写し出してくれると、ほっとする。


ところで主人公の音羽と憲平の二人は良く頑張っており、しっかり考えていて、ストーリーの牽引役として十分以上だが、魅力的な登場人物という点からすると脇役が良い。特に音羽の引き取り手である伴内侍(とものないし)というばあさんと、阿闍梨あじゃり)という呪術師まがいの僧侶が大人として作品世界を引き締めている。下手をするとステロタイプになりかねない人物設定なのでうまくオリジナリティを出したなと感心する。


なにはともあれ良作として長く読まれることになるだろう。

                  • 以下、思いっきりネタばれです。
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さてしかしいくつか気になる点はある。まず怨霊の正体である生まれなかった可能性としての女の子という設定だ。この設定は奇妙である。私はもしあるとしても怨霊というのは生命に由来すると思っている。または一般にそう理解されているのではないだろうか。なので世に現れなかった可能性に霊が宿るという話は不思議だ。この場合の霊とは何なのだろう?それは人間達の心理が生み出す存在、不安や欲がないまぜになった心持ちが集まり何らかの存在として姿形を現したもの、ということか。


ここでボルヘスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を思い出すのだが、集団意識が生み出す、そもそも架空であったが具現化してしまう存在、それに類するものと伊藤氏は怨霊を考えているのかもしれない。


我々は目で物を見、耳で音を聞いて、それに基づいて世の中を認識し、在る物と無いものを判断しているつもりである。がしかし認識論や、現象学で議論されるように、世に先行して物があるわけではなく、我々が認識するからこそ物は存在する。あると思うからある。であるならば、あると信じてしまったならば、それまで誰も認識できなかった物が突如として姿形を現す。さらに、無いと思いたいが、どうしてもあるような気がしてしまうもの、不安や希望やその他の気持ちが一定の臨界を越えたとき、やはり同様に我々に見えてくるものがあるのではないか、そういう考え方である。


しかしこう考えてしまった事で、モダンに怨霊を扱うことには成功したと言えるのかもしれないが、もともと怨霊にまつわる古くから考えられてきた様々なディティールが無理矢理削ぎ落とされてはいないだろうか。霊に関する信仰、言い伝え、知恵は人間社会や自然界を認識するモデルを複雑かつ精妙に示している。そこには生命とは何かという前提があるのではないか。


私が理解する限り、霊とは生命を生命たらしめているものであり、現実世界では常に孤独である。憲平が生まれたことによって憲平という霊は具現化した。したがって、もし可能性としての女の子という怨霊が現れるのならば、それは憲平自身の生霊である他ない。自分が「可能性としての霊」だと信じている憲平自身である。


しかし本作はそう捉えていない。それにより霊というモデルが重要な前提を一つ外された状態になってしまっており、すっかり古典的な信仰や、知恵から外れたモダンなモデルになってしまっているのだ。


私にはそれが不満である。さらにもう一歩踏み込んで描いてほしいと思う。


次に前作でもそうだったのだが、舞台となる世界が狭く、かつバランスが悪い。今回の舞台は宮中とえんの松原の二つで、斜に並んだような位置関係になっている。舞台となる世界の大きさ、配置関係は作品のイメージを豊かにする重要な大道具である。細かく良く描いてあるのは確かでストーリーの進行上は過不足がないのだが、そこに留まっている。あまり無理をする必要はないと思うのだが、もっと空間認識を重視して世界を動かしてみると話の展開にゆったりした感じが期待でき、背景思想そのものもより豊かに表現できるのではないだろうか。


それから登場人物が、ぎりぎりの所でステロタイプに堕ちそうなのが気になる。特に憲平の世話役のばあさんは、かなりやばい。登場人物の造型にもう少し時間をかけても良いのではないだろうか。


これらもしかし贅沢な望みである。このような作品がちゃんと出版されるのはとても嬉しい。次回作は来年だろうか。それとも今年中だろうか。楽しみだ。


2002/7/15
few01