(DVD) 千と千尋の神隠し

先日DVDで『千と千尋の神隠し』を再見したので、その感想を書いておきたいと思います。


いやぁ、こわい、ほんと。映画館でも怖いなとは思っていたのですが、大勢人がいる所で見たせいか、まわりが騒々しかったせいか、それほどでもなかったのだけれど、静かな環境で一人で見たら怖さが際立ってました。逢魔ケ時をこれほど具体的に描写したのってあったろうか。

芸術家とか文学者って連中は甘いことをしないものだけれど、宮崎駿もこの映画に関して徹底してると思います。普通の子ども向け映画の感覚ならば、あそこまで怖くは作らないでしょう。

子供を泣かそうと思ってとか、ホラー映画のように観客を恐ろしがらせようとか、そういうのではなくて、作品の必然(つまりは作者の心理的必然)に忠実に作ってしまったがための怖さだ。以前から思ってはいたのですが、宮崎駿ってのは残酷だ。しかし芸術家の類の多くは並外れて残酷だったりするから、またその残酷な所に普通の私などは惹かれたりするので、悪いわけではないのだが。


児童文学にもそういう怖い本がけっこう多いように思います。


なんというんだろう、心理的な怖さかな。私たちが普通はしまいこんでいる根っこの方にある不安を直撃するような作品が多い。下手をすると子供にとって、ただの恐怖の源になりかねないような。

有名どころでも『モモ』や『銀河鉄道の夜』『ナルニア国物語』『星の王子様』みんな怖い。いまは大人だから、自分というのがある程度信じられるので、それほど強烈ではないが。子供には相当に来るのではないだろうか。

子供にはハッピーエンドの物語を注意して選ぶべきだ、という意見もあって、そうかもしれないとも思う。

しかし子供は、そういう表面的でない、人間心理の根幹にかかわるような問題に敏感に反応する。反応して、大人が思っている以上に正確に理解する。そうして惹かれて行く子供もいる。

文学っていうのは、けっして薬とは限らない。多くの場合に毒だ。普通なら考えないでもすむような問題に面と向かわせられてしまう。子供にとっても危険なブツなんじゃないだろうか。

危険だからといって避けているばかりではいけないようにも思う。ただいつもそういう危険なメディアにばかり触れているというのも大変だろう。

新聞だったかで、テレビを見るときは何も考えないで頭を休ませているときだ、と言った子供の話が載っていた。子供達もそこらは柔軟にバランスをとっているのかもしれない。

千と千尋の神隠し』が何故にこれほどヒットしたのか未だによくわからないのだけれど、何か大勢の人の何かに当たったのだろうな。どこに当たったのか、てんで見当がつかないが。みんなバラバラに当たっているのかもしれない。

しかし私にとってあの逢魔ケ時の描写はそうとうに当たっているのは間違いない。


さて、この映画を見ると一言言いたくなる人が多いようで、いろいろな意見がネット上に流れています。そして、どれも面白く思わずうなずいてしまいます。(けっこう否定的なものも多い)


その中から一本拾ってコメントしてみます。
http://www.tcp-ip.or.jp/~iwamatsu/seefilm/50on/se/sen_chihiro.html


簡単に言ってしまえば、本作品は、世の中の酸いも甘いも知り尽くした爺さんの説教話である。

本作品はどこを切っても、皮肉、説教、教訓である


まったくその通りだと思う。以前から宮崎駿の映画は説教臭かったのだけれど、これはもう臆面もなくまぶされています。もう下手に小細工するのはやめて、思い付くままにぼやいているようにすら思います。



個人は、組織の中で名前を奪われ、責任を組織が肩代わりしてくれることで、自我は消失させられていく。(中略)母親の過保護も個人の「生きる力」を大幅に弱化させている(中略)現代人にかけられた最も恐ろしい魔術とは、このようにして個人の「生きる力」が奪われていくこと


なるほどねぇ。説教を中心に見ると、こういう読み方になるんだな。たしかにそうも見る事ができる。

そういえば思い出したのだけど、登場人物たちがみなそれぞれに問題を抱えていて、それがクリアされてゆくのってのが、この映画のストーリーなんだが、やっぱそれって気持ちいいね。多くは偶然というか、たまたま何となくうまく行って解決されてしまうのだれど、無理に必然を追ってないのも悪くないんだな。

大事なことを踏み外さないように生きていればその内に偶然からか解決することもある、っていう信仰が私の中にあるのだけれど、小市民的信条というのか、それを支持してくれるのが嬉しいのかもしれない。


(銭婆の村への移動)この唐突な場面転換によって

まったく唐突ですね、あれは。乱暴とすら言えるでしょう。かつて手塚治虫があぁいう手を使ってたな、と思い出します。


釜爺=宮崎監督の説教


なるほどね。でもだから何、という気もする。


「人間は成長しない」と言いつつ、ヒロインを成長させてしまう演出に宮崎監督の「こうありたいと願う自分」と「実際の自分」とのギャップが感じられる。


この人の評は前半に比べて後半が弱い。この辺りをもう一歩踏み込んだら面白いように思うのだけど。

いわゆる映画的な、もしくは神話的な「成長」ということで行くと、成長しない映画ってのはほとんど存在ないと思います。千尋もそうで映画らしく簡単に「成長」して行きます。

弱いボクサーが数カットの内にやたらに強くなったり、へたっぴなピアノ弾きが渾身の努力(という説明シーン)の後で突然才能を開花させる。そういうのと同じで、いわば約束ごとの一種なのではないかと思います。

それと「主人公は成長しない」と宮崎駿が言っている時の成長とは違うように思う。

ヒーロー映画を見たりすると私なんかは突然自分が変わってしまったかのように錯覚する。遊園地でジェットコースターに乗ると、世界が違って見えるようなそういう変化だ。けどしばらく時間が経つと自分自身がそう変わっているわけではないんだと気付く。もちろんですが。

千尋にとって、この異世界での経験はお芝居というか、それまでの自分との連続を無視して良い経験で、変わってみる事にバリアーがない。でも戻ってきたらそうはいかない。過去と未来にしばられる連続性があって変わらない。


だから成長しない。


でも、たぶんほんの少しだけ心の持ち方が変わっている。それは成長というには、あまりに微妙で、でも、たぶん間違いなく変わった。何かが。そういう経験を経ながら、いつか成長したと言える日が来る。そういう意味なのではないかと私は思う。



2002/7/23
few01