おとなが読むファンタジー・ガイド

ーきみがアリスでぼくがピーター・パンだったころー
風間賢二


風間氏はファンタジー系の多数の本を翻訳されている人のようです。実は彼が訳した本を全然読んだことがないのですが。その彼による古典ファンタジーの紹介をまとめたのが本書です。

取り上げられているのは、グリム、アンデルセンからはじまって、ナルニア、指輪、ハリー・ポッターまで、13回にわたって書かれています。さすがに良く作品の事情をご存じで、私が知らなかったことも色々書かれてました。

そして何より取り上げ方が下世話です。ゴシップ記事のようで読書が進みます(^_^)。「グリム兄弟は大嘘つきだ」とか「ラファエル前派は女たらしの集団」とか「もしほんとうに彼女に恋をしたのなら、アンデルセンは両刀使い」とか。なかなか楽しいです。

彼がつまらないと思う本は、古典だろうがヒット作だろうが、「つまらん」と言い放ってあります。『モモ』にしても、その意義はみとめながらも「教訓的で退屈」と書かれています。

それでいてポイントは大きく外していないので安心して読み進めることができます。その点では表面的にはケバいですが、内容は、彼言うところの「転覆性」のないオーソドックスな視点の本です。

そのため、さっさと読めて、時々笑えて、十分楽しめたのですが、全体に議論が浅く、残るものは少ない、というのも正直なところです。といいますのも、彼の指向するところが「むずかしい説明は抜きにして、ファンタジーの歴史やおもしろい作品をいっきにわかってもらおう」という物だから当然です。彼にしてなるほど、と思わせるのは、私が酷評した小谷真理の『ファンタジーの冒険』をまえがきで推薦しているところです。

ただ、こういう本当はまじめ、というか普通の方が書いている本だから興味深いというところがありました。最後の「なぜ『ハリー・ポッター』は売れたのか?」の節から、少し長いですが引用します。


ファンタジーが人気があるのは、血肉がかよった現実世界よりもケイタイ電話やパソコン、ヴィデオ・ゲーム、ウォークマンなどが作り出すヴァーチャル・リアリティになじんでいる少女(少年)たちにとって、それが自分たちのなれ親しんで来たリアリズムだということに気づいたからです。『はてしない物語』のなかで、古本屋の主人コレアンダー氏がバスチアンにつぎのように語るくだりがあります。「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな。きみのようにね。そして、そういう人たちが両方の世界を健やかにするんだ」今日のファンタジー・ブームを支えている層は、エンデの語った三種類の人間のどれにもあてはまりません。はなからファンタージエンの住人たちなんです。
(P.185--186)

とてもオーソドックスな理解の仕方だなぁ、と思います。「血肉がかよった現実世界」なんて言葉を平気で使えるあたりずいぶん鈍感です。

少し大きな本屋に行くと、ハリーを中心にファンタジーコーナーがあります。しばらく前には信じられなかった光景です。それを、「いわゆる」的な知識で分析すると、上記のようなことになるのでしょう。

私は、彼に代表される考えに疑問を持っています。彼は「ヴァーチャル・リアリティ」を、現実とは違う、架空の現実感をもたらすもの、というような意味で使っていると考えて良いと思います。VR関係者が言うような批判的な意味合いではないでしょう。

私には、現実感、をもたらすものは、そんなに単純ではないと考えています。携帯電話がもたらす現実感は、けっして「血肉がかよった現実世界」から乖離した空疎なものではない、なんらかの皮膚感覚を伝える情報が含まれている、現実の断面を正確に伝えているのではないかと思っています。ヴィデオ・ゲームしかり、ウォークマンしかり。

そして重要な点は、ファンタジーというのは最初から、まったくの架空を楽しむものではなかった、という点です。読者が持つ認識の風景、その人なりの世界の見方に、ぴったりとくる何かを持っている小説だったのではないか、と思うのです。ただしオーソドックスな見方からすると、それは「現実世界」から乖離した内容に思えてしまうような何か。

こういう考えからすると、現代の新しい読者もまたバスチアンと同じく、「ファンタージエンにいって、またもどってくる」ひとたちではないのか、と思うのです。


2002/10/3
few01