ロード・オブ・ザ・リング

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王の帰還』を再読して、とりあえず映画『ロード・オブ・ザ・リング』について何か語る準備はできた。さてどこから語ろうか。

普段は、映画とその原作を比較するのはあまり意味がないし、やりたくない、と思っている。ただこの映画に関しては原作抜きでは逆に意味がない、と思う。なぜ、そう思うのかがキーポイントだ。

大事な所にたっぷりお金をかけて、とても丁寧に、豪華に、作品への多大な愛情を注いで作られた映画だ。全部通しで見たら10時間ほどになる、長い映画なのに、長さを感じさせないというのもすごいと思う。それだけエンターテインメントとして良く構成が練ってあるということだろう。でてくる役者達が例外無く役柄に一体化していて、その映画の世界で社会的背景を背負って生きているように見えるのも、絵空事を描いた映画としては破格に見事だと思う。歴史を感じさせる建築物など美術の仕事も確かで、どのシーンもタペストリーのようだ。またニュージーランドの自然が活かされたロケの美しさ、そして作品へのとけ込み具合もすばらしい。


なんてことは、私が言うまでもないことだ。何せアカデミー賞をたくさん受賞したほどなのだから。だから私がここで言うべき事は、あの映画のすばらしさを語る事ではない。映画を見終わって改めて明らかになった、多くの原作の愛読者にとってはたぶん自明な、ある事を述べるのが目的だ。

それは、あの映画はやっぱりファンタジーではなかった、ということだ。言い方を変えながら、何が言いたいのか示してみよう。あれは豪華な設定資料集、グラビア、美術集である。動く「指輪物語」博物館である。架空世界を舞台にした壮大なエンターテインメント映画である。

ここでのファンタジーとはもちろん狭義の限定された意味である。広くは架空世界の話なのだからファンタジー映画だろう。それは宇宙船が出てくればSF映画といい、探偵が出てくればミステリー映画というのと大差ない。ここで問題にしているのは多くの優れたファンタジー作品に共通する、核となる魅力的な特徴を備えているかどうかである。

私にとってSFは、ある信じられる未来を舞台にした驚きの物語である。センスオブワンダーと呼ばれる。ミステリーとは、人間の常識を、論理的な仕掛けによって揺るがす転覆である。そしてファンタジーとは、信じられない設定を含むにもかかわらず、信じざるをえない架空を含む世界の膨らみである。

なぜ架空を信じざるを得なくなるのか。私の仮説は、人間には想像力があるから、というものだ。それも意識的に想像するというよりは、自然と想像してしまう性質、いやでも想像しちゃう性(さが)がある、と言った方が良いと思う。妄想というのはその代表だろうか。ろくでもない妄想が、不用意に頭に浮かぶ事がある。消そうと思っても消えてくれない。

この想像力によって我々は世界の意味を自分なりに捉える事ができている。例えば人間の中心視野は極めて小さいことがわかっている。また盲点があることも良く知られている。しかし誰も、そんなピンぼけで、穴の空いた視野だとはわからない。普通にピントのあった継ぎ目のない視界だと信じている。実際は低レベルの想像力が間を補っているのにもかかわらず。大変便利な能力だ。


メディアイクエーションというのも興味深い例だ。テレビにポップコーンがはいったカップが映っている。そのテレビをひっくり返す。すると多くの人が、ポップコーンがこぼれてしまいそうな感じがして仕方がない、という。人間は五感から受け取った情報を論理的に整合して世界を認識しているわけではない。部分部分のシーン別に、それなりに正しかろうという知識を組み合わせて世界を認識している。

では人間はだまされやすいのか、というと、ある面ではその通りだが、実はある面では実に疑り深い。それは人間の判断が単一の系統立った思考の道筋に沿うものではないからだ。複数の判断用の回線があって、それらの集まりが判断に結びつく。

フィクションはみな、このような騙されやすく騙されにくい人間を、いかに上手に騙すかを競ってきたとも言える。いずれも実に巧妙に策を弄して。


原作の『王の帰還』の冒頭であるガンダルフのミナス・ティリス入城を見てみよう。映画では、ダイナミックかつスピーディーに、あっという間に頂上に届く。草原を走る飛蔭、飛び去る背景、そして、画面に巨大に美しくそそり立つミナス・ティリスが現れる。ガンダルフはそのまま回廊を巡って上ってゆき、デネソールのもとにたどり着く。大変美しい映画的なシーンで、たぶん数分だろう。

対して、原作では11ページを要し、広がる情景が細かく描かれ、具体的な地誌的理解を巻き込みながら、またピピンガンダルフ、また兵士たちの会話で、世界観を丁寧に織り込みながら、ようやくたどり着く。読者は、それらすべて嘘にすぎないものに丁寧に絡めとられながら、世界に引きづり込まれて行く。原作を読まれた方ならわかるだろうが、あの世界への牽引力は生半可でない。あっという間に私自身がミナス・ティリスの城門でピピンと並んで立っているのだ。

これは同じシーンを描きながら明らかに違う表現の仕方だ。どちらが良いというのではない。ただ、主従関係は大変明確だ。原作を映像として見るに耐えるものにするという忠実な作業が今回の映画化なのだ。そしてそれ以上を狙っていない。大変潔い。映画は大変明快にわかりやすく視覚的に、指輪世界がどうあるかを我々に示している。短時間に、豪華絢爛に、一切のもったいぶりなしに表現している。そこで削られているのは騙そうという意思である。フィクションの根幹にあたる騙そうという意思が欠落している。

映画『ロード・オブ・ザ・リング』は、大変な迫力で美しく、時に驚かされたが、それを私の中のリアルとして感じるシーンはほとんど皆無であった。

ファンタジーは人間の想像力に訴えかけて、あたかも架空をほんとうのように思わせてしまうトリックである。しかし予め架空であると宣言されたものに捕われるというのは、やはり特殊なトリックによる。だから、この技術を弄するにはそれなりのスタイルが必要なのだ。

映画は、視覚的に本物らしいため、映像だけでは、人間の想像力の入り込む余地がない。だから人間の想像力を刺激することで、世界を膨らませる目的の、私が言う所の狭い意味でのファンタジー映画では、視覚的な本物らしさ以外の別の要素が必要になる。

そこで使われるのは、例えば時間的な見えない隙間である。映画は現在の一瞬しか表現できないため、その瞬間以外は観客の頭の中にしかない。そこに訴えかける。また画面の後ろである。映画は見えている一つの視覚的断面しか表現できないため、その裏側で、または観客の後ろで何が起こっているかはわからない。そこに想像力の働く余地がある。そしてやはり言葉である。登場人物たちが語る言葉が示す何かは、その喋っている瞬間には音としてしか存在しない。それをイメージにするのは観客である。

そしてこの映画『ロード・オブ・ザ・リング』は、そういった他のファンタジー映画にとっては血脈とも言える、そしてこの映画に取っては全くの余計な要素を極力排除している。映画に登場するのは原作の映し絵であり、それ以上の一切の深みがない。逆にいかに忠実に原作の映し絵たらんとするか、無用な深みを加えないか、に細心の注意が払われた映画である。

国家予算に匹敵する金を、『指輪物語』という、たかが小説の単なる映像化に浪費しているのだ。何らの主義主張も、作家性もつけずに。このピータージャクソンの殉教者にも似た行為には脅威を感じる。逆にいま我々は、それほどまでに追いつめられているのだろうか。映画『ロード・オブ・ザ・リング』を欲するほどまでに。