ユリイカ 2004年1月号 特集*クマのプーさん

ユリイカ2004年1月号 特集=クマのプーさん ビター・スウィート


A・A・ミルン原作の『クマのプーさん』の特集です。書店に並んでいたころは忙しく読む暇はないだろうと思ったのと、なにより『クマのプーさん』に関してあえて何か語る事があるのかな、と疑問に思ったのが、買わなかった理由でした。

今回、小川洋子の特集である2月号のバックナンバーを手に入れる時に、ハズれ覚悟で読んでみるかと思い、いっしょに買いました。読んでしまうと、「自分が読んだこと」に愛着を感じてしまう質なので、面白かったのですが、客観的に考えると、読む必要のない雑誌でした。(この微妙さ伝わるかな?)

ただ石井桃子さんへのインタビューは良かった。実に明晰で96歳とは信じられない。年齢ってなんだろう、と思ってしまいます。

彼(ミルン)のように、あまり社会の歪みのない環境で、普通の中流家庭で育った記憶を心に持っていて、同時に大人の考えも持ってる人が出てこないと、何十年も生きつづける文学は生まれないんじゃないかって気がするんです。(「はじめに魔法の森ありき」石井桃子

ふむ。子供の頃のことをおぼえているか、おぼえていたいか、自分に問いかけてしまいました。『クマのプーさん』を読むと、ミルンは微妙な子供心をうまく表現しているな、と思います。みながみなそうではないけれど、確かにこういう子供はいるな、という気がします。

この頃は、非常に難しい論文で真っ向から子どもの本を分析だ、解剖だっていうようなやり方が、流行ってるみたいなんですが、私はもっとね、子どもの本は楽しく、「全体(ホール)」として味わいたいと思うんですよ。(同上)

この特集に書かれている評論も多くは残念ながら解剖学的です。私もそういうことしてないだろうか、と反省しました。なんというか最初に評者の世界があって、そこに作品を引きずって行ってバラバラにするような、そういうやり方が好きではありません。また『クマのプーさん』は、そういうのがやりやすい上に、実は評者の浅薄さが浮き彫りになる、という怖い本です。

多数の評論が載っています。2/3はミルンの本を、1/3ぐらいはディズニーのプーさんの事を取り上げています。あのシェパードの絵とは、似ても似つかないアニメのプーさんがどういう意味を持つのかは、かなり細かく論じれれていて、なるほどと思いました。例えば、ディズニーのプーは赤いチョッキを着ているのがトレードマークですが、原作では冬服として数枚出ているにすぎません。これはプー以前にクマのぬいぐるみとして流布していたテディベアと視覚的に異なるアイコンを与えるために、そうなっているようです。いまや「黄色に赤」=「プーさん」という式が赤ん坊に刷り込まれるほどになっています。これは我が家の娘が小さい頃に「丸が三つくっついている」=「ミッキー」といっていたのと同じです。

さて、それなりに興味深い論考もあったのですが、全体として、評者が『クマのプーさん』について細かく語れば語るほど、評者がバカに見えてきます。何故なんでしょう。なんだか彼らが、どんどんフクロや、ウサギに見えてくるんですね。怖い本だと思います。

これを機会に、何度目かわかりませんが原作を読み直しました。今回最初に感じたのは作者ミルンの緻密さです。おそろしく隙のない本だと思います。登場キャラクターたちの訥弁や、ちょっとした仕草の描写が上手いです。

それと作られる背景を今回はじめて知って読み方が変わった所もありました。

もうひとりの協力者E・H・シェパードは、舞台であるコッチフォード・ファームを訪れ、ミルンに案内されてアッシュダウン・フォレストを散策し、森を写生した。クリストファーのぬいぐるみをモデルに素描も描いた。(ヴァーチュアルなクマとブタ、安達まみ)

これは安達氏が訳した『クマのプーさん スクラップブック』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480837078
からの引用です。

ミルンの眼前には、ぬいぐるみと、子どもと、それと森があった。そして、その森で、ぬいぐるみと子どもが、喋って動きながら遊んでいる姿が想像できるようになった。すぐそこの古いブナの木の根元に、プーがいて、うろうろしている様子が見えるようになった。また「トオリヌケ、キ」と書かれた壊れた看板を、彼らが勝手に解釈している様子が思い浮かぶようになってきた。だから、それを自分のイメージになるべく正確にあうように文章として描いてみた。

そういうことなのではないかと思います。それは、例えば私が、実家のある田舎の山で、娘が大事にしていたぬいぐるみが、うろうろして娘を探している様子を想像できるのと同じなのではないか、と思います。そう思って読んで行くと、シェパードの絵が見事にそのアイデアを具現化しているのがわかります。これこそ「最初から嘘だとわかっているのに、信じざるを得ない世界のふくらみ」なんですね。

この文章もフクロのようになっていない事を祈ります。