ローマ人の物語〈14,15,16〉パクス・ロマーナ

新潮文庫 塩野 七生 (著)
ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫) ローマ人の物語〈9〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(中) (新潮文庫) ローマ人の物語〈10〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(下) (新潮文庫)
ローマ人の物語 (11) ユリウス・カエサル ルビコン以後(上) (新潮文庫) ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫) ローマ人の物語 (13) ユリウス・カエサル ルビコン以後(下) (新潮文庫)
ローマ人の物語 (14) パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫) ローマ人の物語 (15) パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫) ローマ人の物語 (16) パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)


カエサルという男が本当にいたんだな。2000年前ではあるけれど、そういう名前の男がいて、息をして、喋って、お洒落をして、馬を飛ばしていた。この本を読むと、それが実感できる。

アウグストゥスという男がいた。カエサルが死んだことを僻地で聞いて、ローマにかけつけた少年がいた。いろいろと足りない所のある彼が、自分の足りない所を理解しつつ、緻密な努力を重ねてカエサルの理想を実現させる。そのマラソンのような生涯が見える。

塩野氏の本を読むと紹介されている人物に惚れてしまう。魅力的に描く。それも何かを誇張したり、特定の面を隠すことで演出するのではなく、その人が、どういう状況で、どういうことをしたか、できなかったかを具体的に示すことで、そこに読者を巻き込んでゆく。

その中でも最上級の魅力を備えた黄金のような人物がカエサルである。ここまで読んでくるとローマというのは「カエサル」という芸術品を作り出すために、天が配した国と時代ではなかったかとすら思える。

つまりは、すでに塩野氏の術中に、私ははまってしまっているのだ。

戦えば必ず勝つ。快活、明快な人柄で、揺るぎない自信に満ちている。視野が空間的、時間的、そして人間的にも飛び抜けて広く、誰も見えない所がありありと見えている。お洒落で女に細やかで、莫大な借金を平然とやってのける。堕落に無縁で、目が曇ることがない。恨みというものを知らず、しかし甘くなく、徹底して合理的である。アイデア満点でオリジナリティにあふれた施策を確実に実現させる。そして抜群に文章がうまい。

一人の普通の肉体の人間にこれだけのものが詰まっている。ため息がでるほどの超人である。

特にガリア戦記は、背景となるガリアの地の自然環境も雰囲気を盛り上げて、先攻地点で冬期に壊滅する自軍、敵にするには惜しい荒々しい戦争の天才との対決など波瀾万丈で巻をおくことができない。

しかし、そのカエサルが死ぬ。このカエサル殺害の前後の文章は、まるで良くできた現代サスペンス小説を読んでいるかのような、具体性を備えている。お芝居のような華々しさは全くないが、実に良くわかる。それが逆にいかに大きな事態であったのかを、深く理解させる。

そしてアウグストゥスの時代に移る。カエサルに比べてさまざまに足りない所のある、しかしローマ帝国を作りあげるに必要な最も重要な資質を備えた男である。

このパクス・ロマーナの巻がまた見事だ。ローマ人の物語の最初のあたりでも思ったのだが、資料の少なく、歴史家があまり魅力的に取り上げようとしない時代を、書かせた時に、塩野氏の実力が露骨にわかる。たいしたものだ。

カエサルの時代はそもそもが役者が揃っており、資料も一級の一次資料があるため、膨大な情報をいかに整理しエッセンスを伝えるかが仕事になる。

それに対し、アウグストゥスである。まじめな男の長いまじめな一生だ。それがこうも面白く、考えさせる内容になり、かつ、ぐっとくるものになるとは。

さて、今回読みながら、ずーっと私が考え続けていたことがある。それは帝政って、どうよ、ということだ。

一人の人物が頂点に立ち、巨大な国家がその指導のもとで動くという形態は、トップに立つ人物がどういう人物であるかによって大きく変わる。良くなるスピードも速いが、悪くなるスピードも速い。

議会制民主主義が当然の現代日本で、教育を受けた私には、わざわざそれほどの天才達がなぜ、帝政を完成させることに執心したのか、その根拠は何なのかが気になってしかたがなかった。

(なお当時のローマ帝国は、今のアメリカ合衆国に良く似た地方分権、政治形態であった。トップの選び方はもちろん違う。)

これらの本は思想書政治哲学書ではないので、直接に答えがあるわけではない。

ただ繰り返し書かれているように、確かにローマはこの帝制への移行によって、その後数百年の繁栄を手に入れることになる。つまり著者は、この時代のローマを安定的な繁栄期に移すには、帝政が必要とされたのだ、と言っているのだ。

また帝制は、一人の人間に権力が集中するように言われるが、実際にはこの期の変革によって、参政権を持つ市民の数は爆発的に増えており、元老院とその候補者達である一部の市民に集中していた時代よりは、民主的でもある。

最終的にはリスクの大きさと、対するメリットのバランスということになるのだろうか。それまでのローマは、村社会が大きくなったような、合理的でない仕組みや、既得権がみっしりと根を張っていて、まずは、それを巨大国家としてちゃんと機能するようにするには、誰か目の効く人、つまりはカエサルガラガラポンをして整理するしかなかった、ということだろう。

今の日本の構造改革とやらが、最初の目標から次々に骨抜きにされて行く姿を見ると、既得権を崩すというのがいかに大変かわかる(2004/11執筆)。

では、アウグストゥスが帝国を完成した後にも、帝政は必要だったのだろうか。それはわからない。少なくともアウグストゥスには見えなかったのだろう。彼はカエサルではないから。彼にはローマの民が平和を楽しみ、幸せに暮らせるようになったことを確認し、その未来へ続く希望に疑いを抱く事なく、死んでいったのだろうと思う。

パクス・ロマーナの巻の最後は、そういった余韻を残す見事な章だった。