月刊言語2006年6月号 特集「ファンタジーの詩学 ---想像力の源

月刊言語2006年6月号
特集「ファンタジー詩学 ---想像力の源泉をたずねて---」
http://thistle.est.co.jp/tsk/detail.asp?sku=50606


言語学関連の雑誌「言語」でファンタジーの特集が組まれていた。


特集記事は以下の通り:
[1] 二重性の文学としてのファンタジーナルニア』から『指輪物語』そして映像の時代へ(井辻朱美
[2] 「ケルト」神話とファンタジー(辺見葉子)
[3] アジアのファンタジー(松枝 到)
[4] 言語学者トールキンの横顔(伊藤 盡)
[5] ファンタジーを生みだす心(上尾真道)
[6] 子どもの遊びからファンタジーへ(無藤 隆)
[7] ファンタジーの種子――バシュラールの物質的想像力(及川 馥)


読み終わってすぐは、大したこと無かったな、という印象だった。が、それぞれの記事を自分なりに解題して、論点を分析していったところ、思いがけず、全体に横たわる視点が得られた。結論は以下の通り。


ファンタジーは、驚異を語ることで、人間の想像力に訴えかけ、語られていない何かを浮かび上がらせ、読者や観客に安心や驚きを与えるものだ。安心できる物語をイメージして、納得したい、不安を払拭したいと考えるのも人間だし、疑り深い追求を繰り返し、その果てに、やはり語り得ないものを発見したいと考えるのも人間だ。


まず最初は井辻氏の『ナルニア』の映画にちなんだ評論である。ナルニア国物語は、背景世界が指輪物語に比べるとチープなので、映画化すると底の浅い二重性が露呈して見られない物になるのじゃないかと心配だったが、そうでもなかった、という話である。

彼女によると、ファンタジーとは、表面的に語られている事象や物・者が、背景の象徴的な深い意味や、連想、世界観と結びついている二重性が重要だ、とのことである。これは井辻氏おきまりの論で、友人のI氏は、そんな「わかりやすい意味」に還元できるような話のどこが面白いのか、というし、私もちょっと単純化しすぎ、もしくは分かりやすく書き過ぎだと思う。話を戻して、というようなファンタジーの二重性により、私たちは奥深い世界観を味わえ、現実に新しい解釈を得ることすらできる。

が、映画は二つの点で小説に比べて制約がある。一つは強制的に椅子に縛りつけるために、人間ドラマをエンジンとして使わざるを得ないという点、もう一つは視覚的リアルさが武器、というよりも、それしか武器がないという点である。表面に描くべきなのは、背景の意味を浮かび上がらせる象徴でなければならないのに、人間ドラマが全面に出て来ては見えなくなってしまう。また表面的事象から背景の世界観へは、視覚的リアルでは届き得ない。

実際、映画ナルニアは、その描いている内容の弱さを露呈するのだけれど、ところが、ここで不思議な現象が起きている。というのは、その弱点があらわになった時に、逆に語られなかった何者かが背後にあることを、想像させてしまう、二重写しに感じさせてしまう。これは所謂ファンタジー小説での二重性とは違うけれど、興味深い現象であって、結論としてファンタジー小説の映画化は、ファンタジーの意味を解き明かすのに有効、という話だった。


[2] 「ケルト」神話とファンタジー(辺見葉子)
[3] アジアのファンタジー(松枝 到)
は、読み物としては面白かったが、今回の私の観点からはあまり意味がない。前者は「ケルト神話ってけっこう誤解されてますよね」という話で、後者は「アジアの古典もファンタジーとみなせますね」という話だ。


[4] 言語学者トールキンの横顔(伊藤 盡)
では、言語学者トールキンの話が書かれている。そこは、まぁ、それとして、今日の論点に関連するのは、Morgothの意味が作り出される過程について書かれた箇所だ。トールキンファンなら、たぶん常識的な話だろう。

Morgothという言葉の意味は何だろうか、とトールキンは考えた(って自分で作った単語なのだが)。mor-は「黒」という言葉であることがわかっているが、-gothとは何なのか?ここでエルフ語のcosta「争う」という単語が記憶からよみがえる。costaはkothが変化したものであろう。そして有声音rの後につながるために、kothが変化して-gothになったのに違いない。つまりMorgothは「戦うべき黒い存在」とでも言う意味になる。

と、自分で勝手に作った言葉の歴史を、勝手に自分で理屈をつけて楽しみながら組み立てていったらしい。


[5] ファンタジーを生みだす心(上尾真道)
は、心理学に依拠して、ファンタジーというよりは空想が、どうして生まれるのか、を議論したものだ。本論によると、ファンタジーを語る力は、<他者>の無知への対処が発端である。ここでアドルフ・ヴェルフリという統合失調症の空想作家の話が出てくる。彼は精神病院にて、あふれんばかりの想像力で、自身を主人公とした奇想天外な話をものにしている。その彼の行為を追求して行くと、結局、空想とは、自分を見守る<他者>を探して、現実と自分の関係を問い直し再発見する行為だ、ということが分かってくる。


[6] 子どもの遊びからファンタジーへ(無藤 隆)
小さい子供は、時々、空想の友達を作り出すことがある。子供自身、その友達の存在を信じているが、やがて成長するにつれて忘れてしまう。また、ごっこ遊びに夢中になることがある。もちろん架空の物語に夢中になることがある。これらは、いずれも物語によって自分を世界の中に位置づけようとする行為であり、生きる力に直結する重要な能力だ。


[7] ファンタジーの種子―バシュラールの物質的想像力(及川 馥)
さて最後は、私が『空間の詩学』を持っているガストン・パシュラールを取り上げて、想像力の意味を議論している。彼の書くものからして文芸評論家みたいな人かと思っていたら、本職は科学哲学らしい。もともとは物理学を中心として論を展開していたとのことで、意外だった。彼は、想像力にもとづく非現実化機能、というのが大変重要なのだ、と言っている。どういうことかというと、人間は毎日経験したり知ったりする、現実や物質から、空想や嘘、間違いをどんどん作り出す能力を持っている。そして、この間違いこそ新しい認識の原動力で、科学も本質は間違いをどんどんおかすところにある。もっと言えば、想像やイマージュは、すべて人間の現実の経験をもとに作り出されたもので、これこそが必須の重要な能力だ、という話だ。


以下、私が考えたことを述べる。結論は最初に言った通り。

小説や映画には、「人間の想像力を掻き立てて楽しませる」という要素がある。観客の頭に勝手な想像をさせる、ということだ。ホラー映画などはその代表で、見せない方が怖い。見せなければ見せないほど、観客は勝手に自分の想像の中でイメージを膨らませて行く。例えば幽霊を扱う映画は多いが、一度画面に幽霊を登場させてしまうと後は、どうしてもコメディになってしまう。

見せることで楽しませる、という要素ももちろんある。ゴージャスなCGやセットなど、浸るように心地よさを与えてくれる。見せる/見せないの片方だけというエンターテインメントはなくて、それぞれの作品でどちらに偏っているかは違う。

何も示さなければ、想像することはできないので、何かは書いたり、見せたり、聞かせたりする。例えば、自動車が画面を通過して、ガシャーンと音がすれば事故が起こった、と想像する。最近のCGを使った映画の傾向としては、何でも見せる方に偏ってはいる。ただ、そもそも映画自体、縦横に枠のある画面に、1秒間24枚づつの紙芝居を表示しているだけのものを、人間が勝手に奥行きのある現実のように勘違いしているだけなので、基本は想像力に頼った表現方法、エンターテインメントである。

ファンタジーというのは、ありえないこと=超自然を描く。ミステリーや、恋愛小説のように、自分の身には起こっていないけれど、そういうことがあっても不思議ではない内容を描くのではなくて、普通にはあり得ないことを描くのがファンタジーである。同じく超自然を扱う宗教書や、スピリチュアル小説の類は、読んでいる人が真実であることを信じているという前提で書かれるが、ファンタジーは、読んでいる人も嘘っぱちであることを信じている超自然を描く。

幼児であれば、超自然の境目が曖昧なので(一般に思われているよりは合理的な理解が幼いころに身についているらしいが[6])、あり得ない不思議も気にせず読み進めることができるだろう。しかし少なくとも中学生以上、ごっこ遊びはしないような年齢なら、あり得ないというのは言われなくてもわかっている。

さらに、描写されている超自然を想像するのは、まだ楽である。例えば指輪物語では、やたら微に入り細に入り説明がなされているため、イメージする力の強弱はあるにしても、描かれてはいることを想像できれば良い。映画であれば、超自然は映像として音をともなって目の前に提示される。信じる信じないは別にしても少なくとも低次の感覚は確実に騙されている。

ところがファンタジーの狙いは、もう一段先にある。語られていない所にこそ、中心となるポイントがある。見えない所が肝心なところだ。なぜなら「人間は自分が想像したものをこそリアルと感じる」からだ。ただそれは井辻氏が[1]で上げたような、象徴としての意味とか、世界観のように抽象的には要約できない。

実は逆に、線と線の間の空白に、線を感じるような、極めて単純なことであったりする(彼女はこういうのまで含めて世界観という言葉を使っているのかしれないが)。私たちの認識に豊かさを与えてくれる、ということだ。

ちょっと前にMIND HACKSで紹介したように、人間の認知というのは、いくつもの併存する判断が多重に重なり合ったものになっている。それは人間の知覚が、極めて不完全で、荒っぽいサンプリングにすぎないため、それを補ってリスクを回避しているのだ。

ファンタジーが与えてくれる超自然の種子が、私たちの認識機構にばらまかれると、やがて芽吹いて、認識そのものが変わってしまう。わかりやすくは、コロボックルがペン立ての裏に隠れているような気がしてくる。

ここでファンタジーというのが海外、特にイギリスを中心に発展してきたということを思い出す。その方法は大変西洋的である。一つ一つレンガを積み上げるようにして超自然の物語を積み上げて行く方法が使われている。そして、その構築の目的は何か、というと、構築したものの立派さが目的ではなく、そうやって積み上げて、それでもまだ語る事ができないものを読者の頭の中に現出させることが目的だ。語って、語って、語り尽くして、それでも語り得ないもののために、語り続ける。

これに対して、落語や俳句に代表されるように、日本では語り得ないものがあるのは当たり前であって、そもそも語り得ないのだから、語り尽くそうとしない。語るに足る部分、断片を語るだけだ。というような文化からすれば、ファンタジーが生まれなかったのも無理はない。空気を醸し出すことこそ日本で好まれる方法である。

人間は、世界が示す小さな断片を、もっともらしいつながり、接着剤でくっつけて、世界を解釈する。頭の中に、少なくとも瞬間的には、それなりにもっともらしい一貫性のある知覚を形成する。

言語も実は、類似の構造になっている。言葉も実はそれぞれ単独では、あまり意味のないものが、相互に無理矢理つなぎ合わせられて、関係づけられて意味が生まれている。Morgothの例は、指輪物語の世界の話ではあるが、我々の言語理解そのものも、エルフ語と実は大差ない。

では、人間が頭の中に勝手に作り出した、断片の寄せ集め、パッチワークにはどの程度の意味があるのか。少なくとも毎日の生活を送って行く上では必須だろう。MIND HACKSで出て来たように、特に視覚系は処理速度が遅いため、曲がり角でぶつかりそうになった自転車をよけたり、飛んでくるボールに対処するためには、このパッチワークこそが役に立つ。正確さを追求している間に、自転車にひかれて、ボールが頭にあたったのでは意味がない。

さらに、パシュラールが述べるように[7]、実は科学というものも一種のパッチワークにすぎない。実に手のこんだパッチワークではあるものの、人間の身の回りの物や、体験から勝手に想像力を膨らませて作り出した勘違い、間違いの集積が作り出したパッチワークである。

もっと言えば、ヴェルフリが追求したように[5]、得られた断片から、もっともらしいパッチワークを作り出す能力こそが、自分を世界に位置づけ、世界と関係づけようとする基本的な能力だとさえ言えるだろう。そして何より、このパッチワークづくりは楽しい。

そして結論を再掲しよう。ファンタジーは、驚異、超自然、不思議を語ることで、人間の想像力に訴えかけ、語られていない何か、語られたものを要素とする、もっともらしいパッチワークを浮かび上がらせ、読者や観客に安心や驚き、そして何より楽しみを与えるものだ。安心できる物語をイメージして、納得したい、不安を払拭したいと考えるのも人間だし、疑り深い追求を繰り返し、その果てに、やはり語り得ないものを発見したいと考えるのも人間だ。