魔法ファンタジーの世界

脇明子
魔法ファンタジーの世界 (岩波新書)


導入と四つの章から構成されている。導入部には、今の児童文学ファンタジーを取り巻く状況を、たんに上っ面をなぞるのではなく、著者自身の立ち位置から嘘をつかないように問題に迫り、的確にまとめている。脇氏はノートルダム清心女子大の教授であり、岩波少年文庫をはじめ多数の児童文学の翻訳家でもある。以下、まず本書の主張を要約して記述し、その上で私の意見を書く。

脇氏は、学生に小説を読まない人が少なくないと言う。ただ『宝島』などリアリズム文学であれば、手渡す事で、本の世界に浸る楽しみを比較的容易に理解できる。ところがファンタジーとなると、そう簡単ではない。

なぜだろう、という疑問から、ファンタジーを脇氏流に掘り下げて行く。その一つの結論が、ファンタジーは、人間形成の上での大きな役割を担うもの、という視点だ。その役割とは、常識にとらわれない自由な発想を促し、土台のない空中に楼閣をくみ上げる技を習得する、という点にある。

それに対して、現代のファンタジーを取り巻く状況は、隆盛しているにもかかわらず、あやういのではないか、と主張している。グロテスクなもの、暴力的なもの、冷たいものが積極的に好まれる傾向があり危惧を抱いている。

その上で、魔法ファンタジーの主たる魅力を四つあげる。
(1) 魔法
(2) 善と悪との戦い
(3) 神話・伝説・昔話
(4) 別世界


以降の四つの章は、これらに対応している。

まず魔法には「願いをかなえる」という要素がある。ただ安易な願い、「こらしめ」や「しかえし」のために魔法を使うのは望ましくない。心からの願いでなければ、魔法を借りたとしてもしっぺ返しを食う(例えばゲドが失敗したように)。つまりは、現実世界と同じく、単に望みをかなえる技術に頼るのでなく、自分との対話の中で見つけた深い願いを実現するために魔法を使う、というのがファンタジーの醍醐味だ。もちろん、アラビアンナイトのように、きらびやかなひとときの夢を見せてくれるという魔法の魅力はあるが、成長を実感できることが重要であり、この方向で考えると、超自然を描く魔法だけでなく、我々の想像力を強く刺激して五感を開く、文学の力そのものに魔法を感じることができる。

善と悪との戦いについては、単純化すると様々な問題が発生すると言う。現実には人間的な小さな悪いことが集積して「悪」となる。絶対悪というのは、かなりに架空的である。正義の側にいることの危うさ、自分も善悪の境界線の近くをうろついているという認識を忘れさせてしまうものには疑問を感じる。その意味で『チョコレート工場の秘密』に何故あれほど人気があるのかわからない。単なる「こらしめ」話に過ぎないではないか。

神話・伝説・昔話について書かれた章が、この本の中で最も力が入っている。ファンタジーに強い影響を与えた、ヨーロッパの伝説に関して詳細に調査した結果が書かれている。中に、伝説の魅力の中心は、語られていない所にある、という興味深い指摘がある。欠落している部分、あえて語らない部分に読者を引きつける魅力がある。

アーサー王伝説をはじめ『オシァン』、ゲーテの『メルヒェン』『エッダ』『マビノギオン』『ベーオウルフ』『ク・フーリン』などを語る中で、ファンタジーに継承されている魅力について語っている。それは「押し寄せてくる恐怖や絶望に立ち向かい、結果はどうあろうとも最後まで戦う覚悟を決めた人々の、突き抜けるように明るくて沈着な生き方」に強く元気づけられる、というゆるぎない勇猛心の魅力である。

別世界について語る最後の章では、まず、現実とは違う別世界を丁寧に描くファンタジーには、じっくりと手間をかけて想像力を働かさないと入り込めない世界だからこそ、読み手自身のものになる、という魅力があると書く。この思想は何度も出て来て、魔法の章で出て来た五感を開く、というのも同じ価値観に基づいている。

さて、こういった色々な調査と、多数のファンタジーへの考察のもとに、結論として書かれているのは、「人生を豊か」にするファンタジーと、「現実嫌悪」に結びつくファンタジーという違うファンタジーがある、ということだ。

後者は、伝説や神話の拘束を無視して形やアイテムのみを真似し、安易な願いの実現や、こらしめ、しかえしのために、追いつめられた登場人物が発動するかたちで魔法が使われ、可能な限りヴィジュアルに、押し寄せる出来合いのイメージを与え、より刺激的な、風変わりな、グロテスクな内容へと進むような話ばかりだ。

それに対し、前者は、伝説や神話が持っている「宇宙の中で拘束を受けながら生きている人間の条件」を継承し、心からの願いでないと無用という魔法を、五感を開いて成長を実感するために用い、善悪の境界の危うさをふまえた上で、じっくりと手間をかけ、五感に想像力を働かせて入り込むことで、人生を豊かにすることに役立つ物語だ。

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かなり乱暴に要約したため、少し脇氏の意図とは違っている所があるかもしれない。日本人が書いたファンタジー論としては、久々にヒットなので、関心のある方はぜひ本書を手に取られるのが良かろうと思う。私の要約とは違って、大変丁寧かつ優しい語り口調で、多数のファンタジー作品を引用しながら、彩り豊かに書かれた本だ。

さて、ところで私自身は、この本に対してどう思ったかということだが、まず多くの点で同感だった。ただ、かなり根深いところで引っかかっている。

まず、私の要約が強調しているように、子どもへの教育的配慮とでも言うスタンスが強い。ただこれは脇氏自身も本の中で、そのように見えることを気にしているのだが、彼女自身の人生経験、読書体験に嘘をつかずに書くとこうなってしまった、ということであり、それは私も信じられる。また共感できる部分は多い。

結論の、人生をいかに楽しく豊かに生きるか、ということに、良質のファンタジーは十分貢献する、という主張は、まぁ文句のつけようがない。

しかし、ファンタジーに含まれる、享楽的で、いかがわしく、トリックスター的な、アイロニーな要素がはじかれてしまう。ファンタジーの、甘い菓子のような、ノスタルジー、馴染んだ居心地の良さ、果ては逃避や厭世の魅力も、やはり否定しようなくある。

こういうファンタジーの現実を目の前にした時、脇氏の考えに従うと、顔をしかめざるを得ないだろう。身体感覚、想像力、現実認識へのつながり、ということを重要視すれば、あえてファンタジーである必要はなくなってくる。事実、この本の中で脇氏は、ファンタジーでない児童文学を、理想を描く例としていくつもあげている。

ファンタジーの持つ毒を忌避すれば、毒の無い世界に縛られてしまいかねない。ご自身が、現実からの遊離を問題視しておられるのに、自分で設定した価値観が、ファンタジーと子供をめぐる現実から遊離することにつながっているように感じる。

これは、最近読んだ『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』(仲正昌樹) で議論されている内容に通じる。脇氏の議論は大変まじめだ。まじめな議論は、弁証法の落し穴に落ちて、ともすると袋小路に入ってしまう。その袋小路から身体を離すにはアイロニーが必要になる。ファンタジーというのは、世の中に、新しい拗ねた見方を提示するものでもある。捻くれているが、そうであるが故に、今までまじめに見ていたのでは見えないものが見えたりする。

だから人生の豊かさといったような、ある意味「卑近な」有用性に結びつけると、ファンタジーの持つ広がりと、長命な意義が見えなくなってしまうのではないか、というのが私の考えだ。ここがファンタジー論の難しい理由で、まるで、光り輝く宝石が、自分の手に取った途端に光を失って石ころに変わってしまう、というイメージが思い浮かぶ。

例えば、SFとは何か、という議論をした時に、スペースオペラなんかSFじゃない、というのは簡単だ、スーパー戦隊物も、ケロロ軍曹もSFなんかじゃない、というのは簡単だが、それで良いのか、ということだ。

ただ脇氏が示した、一種唯物論的、身体感覚重視のファンタジーという価値観に意味がないというわけではない。むしろ大変重要な評価軸の一つといっていいだろう。

世にあるファンタジー作品に蘊蓄を傾けるというのは、ミシュランガイドのレストランレビューをするようなものだ、と思う。店の雰囲気が重要な人、味さえ良ければ良い人、コストパフォーマンスが重要な人、静けさが大事な人、など多数の評価軸がありえる。ファンタジー作品には、多様な評価基準を設定できる魅力がある。

もちろんこの本に何度も登場する『指輪物語』や『ゲド戦記』「ナルニア国物語」は五つ星級のファンタジーであり、脇氏の厳しい眼鏡にかなう作品である。しかし世の中には、三ツ星もあれば、一つ星もある。私にとっては、その一つ星の店が、この上なく愛おしかったりする。それでいいじゃないか。

私は現代ファンタジーの状況は、脇氏とは違って、悪くない状態だと思っている。たしかにチューインガムのような、ありきたりな甘さに覆われた、読むに耐えない本も少なくない。が、これほど広い裾野をファンタジーが持ち得た時代は、なかったのではないか。山頂に指輪やゲドをいただく、この大きなファンタジー作品の広がりは、多数の読者と、多数の将来の作家を生み出し、やがて我々をうならせる、新たな五つ星を生み出すのではないかと期待している。