ルリユールおじさん
娘が小さいころは絵本をたくさん買っていた。その娘も中三で、最近は絵本は買わない。
その娘が、ついおとといぐらいに、昔の絵本を取り出して読んでいた。そして「とても怖かった本が、怖くなくなっていた。でももう読みたくない」とか、「やっぱり、『古くて新しい椅子』は好きだな」とか言っていた。
その印象が自分に残っていたのだろうか。昼にふと入った本屋で目にした絵本を買った。
『ルリユールおじさん』には、一冊の植物図鑑が大好きな小さな女の子が出てくる。彼女は、その図鑑が好きで、なんども読んで使っていたので、痛んでページがバラバラになってしまった。
舞台はパリ、街並が正確な水彩スケッチで描かれている。アパルトマンの、植物がいっぱい置かれているベランダで、女の子が手に持った図鑑が、ばらばらと壊れた瞬間のシーンが冒頭に描かれている。右のページは、螺旋階段を降りている背の高い老人の絵で、何も言葉が無い。
やがて、見開きの左側が、女の子の時間、右側が製本職人のルリユールおじさんの時間を描いているのだとわかる。
女の子は、大事な図鑑を修理してもらおうと、街を歩いて訪ねまわる。ルリユールおじさんは、バゲットを買ったり、カフェで知り合いと話をしたりする、いつもと変わらない一日を過ごしている。やがて、その二人の時間が一緒になる。
パリには、製本を専門とする職人がいるらしい。今では伝統芸能なみに希少な存在になってしまったらしいが、生涯を手作りの製本技術に捧げた職人だ。
終わりあたりに、その職人が、本の表紙をそろえたり、背の丸みを作ったりしている、「手」の絵がいくつも描かれたページがある。この手が見事だ。ふしくれだった手が製本のすべての工程を記憶し、紙や本の状態を感じ取っている。
何をしてきたか、何に時間と労力を費やしてきたかは、手に現れる。また、どれだけ手抜きをしてきたか、どれだけ意に染まぬことを自分の手にやらせて来たか、も手は記憶しているように、私は思う。
この絵本は、一枚一枚の絵が、どれも大変注意深く丁寧に描かれていて、かつ、美しい。文字が少なく、ページの構成や、物語のリズムが綿密に練られていて隙がない。見事だと思う。
図鑑がどうなるのか、ルリユールおじさんと女の子のその後は、ぜひ本書を手に取って確認していただきたい。
本屋で読み終わって、ふと顔を上げた時に、自分の気持ちが、こまごまと捕われていた日常から抜けて、空中に解き放たれ、すがすがしく透明で深い青色の視界を得たような感じがした。
絵本の力は凄いな。