天と地の守り人

上橋菜穂子
天と地の守り人〈第1部〉 (偕成社ワンダーランド)天と地の守り人〈第2部〉 (偕成社ワンダーランド 33)天と地の守り人〈第3部〉 (偕成社ワンダーランド)


天と地の守り人』を読み終わったのは、しばらく前なのだけど、ちょっと言葉に表しづらい「もやもや」があって感想を書けずにいた。面白かったけど、やはりひっかかる。手放しに喜べない。

充分に楽しませてもらった。特に2巻は良かった。2巻のテーマは「生きてゆく知恵」であり、登場人物が生き生きと自分たちの考えで精一杯生きているのが、なんとも清々しい印象を残した。守り人シリーズ全体の中で、この2巻が一番楽しめた。

問題は最終巻だ。「もやもや」を別の言葉で表すと、なんか「狭い」のだ。予定調和、というと言い過ぎだけれど、わかりやすい意味へ帰着してしまっていて、楽しくない。理性としては、この帰着に納得できるのだけど、気持ちがついていっていない。しかし、まぁ私の高望みだとも言えるわけで、感想を書こうか迷っていた。自分の気持ちに嘘はつけないけれど、あまりしっかりした考えも無く批判的な感想は書きたくない。

少し話は飛ぶが、暮らしの手帖(第4世紀28号)に掲載されていた、佐藤雅彦の連載「考えの整とん」の第3回「物語を発現する力」が、目にとまった。書いてあること自体は、石井桃子か誰かが言っていたような、他でも聞いた話だが、短い中に見事に整理されていたので、感心した。佐藤雅彦さすが。少し引用する。


「物語をたちどころに生み出す能力」は、自分の目の前に現れた一見不可解な出来事群に対して、納得できる解釈を与える「人間に用意された生きていくための力」ではないかという考え方です。

これを、三角形が二個並んだだけの絵を例にとってわかりやすく説明してある。さらに、あるラーメン屋で、佐藤氏が何年にもわたって聞きかじった断片を列挙し、その断片が自然と我々に「物語」を発現してゆくのを紹介した上で、以下のように述べている。


そして物語をどんどん発生させた暁には、その断片断片が持っている不可解さは解消し、ある種の満足感さえ生まれるのです。つまり物語の創造という能力は、断片的な情報群を一件落着させ、禍根を残さず、我々に新しい未知に向かうことを可能にさせているのです。

作者は安易に物語を意図に嵌め込まない方が良いのではないかと、私は考えている。世界は我々が考えるよりも広い。マクロコスモス(外の世界)も、ミクロコスモス(心の世界)も。意図が捉えられる世界など、たかがしれている。上橋氏の書き方は、わかりやすすぎる。バルサたちの生きている世界の広がりは、上橋氏が考えるよりも広く、そんなにわかりやすくはないと思う。読者は与えられた断片から自然と自分の物語を作り出せる、のだから、そんなに縛らなくても大丈夫なのに。

さて、自分の不満が単なる欲張りに過ぎない、という可能性も捨てきれなかった。そこで、たまたま納戸の奥で見つけた内田善美の『星の時計のLiddle』を読み直した。やがてヒューが夢の中でリドルに遭遇するシーンに辿り着き、その鮮烈な異世界の魅力、断絶、恐れ、不安、そして光を感じて、やはり欲張りじゃない、と思った。

『星の時計のLiddle』はエブリディマジック型で、『天と地の守り人』はハイファンタジー型なのだが、実は思いのほか構成が似ている。前者は、シカゴという異国が舞台で、そこから異世界を覗き見るという構成である。後者は、新ヨゴ皇国などの異国が舞台で、そこからナユグを覗き見るという構成だ。バルサ達が活躍する舞台が、リアリズムで描かれているがために余計に、類似点が際立つ。

そうやって比較してみて、ナユグの存在感の弱さが、私にもやもやとした印象を残していた原因の一つであることがわかった。ナユグが現れるシーンが少なくとも私には、いずれも魅力に乏しい。上橋氏は異界に思いをはせるには、あまりにリアリストなのではないだろうか。少なくとも異界を信じたいという気持ちが、私には感じられない。だから存在感が薄い。であれば、それに捕われるチャグムの心の動きも不明瞭で、平板なナユグ観にとどまってしまう。

天と地の守り人』は過去の多くのファンタジー作品へのオマージュでもある。私は特に「ゲド戦記」への憧憬を感じた。ただ、私が苦い思いをしながら、思い出したのはル=グインの『夜の言葉』の中の、「エルフランドからポキープシへ」だった。バルサたちの世界は結局、ポキープシになってしまっていないだろうか。上橋氏の文体はル=グイン言うところのジャーナリスティックな文体のように思う。それがために魔法が働かなくなっている。ル=グインは『夜の言葉』の中でこういっている。


ファンタジーは旅です。精神分析学とまったく同様の、識域下の世界への旅。精神分析学と同じように、ファンタジーもまた危険をはらんでいます。ファンタジーはあなたを変えてしまうかもしれないのです。

バルサは徹底したリアリストであり、チャグムもまた最終的にナユグをリアリズムで捉えている。児童文学は、子供たちに現実に生きることの意義を知ってもらうことも大事な役割だ。また、その清々しさ、まっすぐな見事さに良きありかたを感じる心は大事だ。

だがファンタジーは、さらに、そういった倫理では捉えることのできない、世界の奥深さ、怖さと魅力を表現する文学でもある、と私は思う。