神童

さそうあきら
神童 (1) (Action comics)神童 (2) (Action comics)神童 (3) (Action comics)神童 (4) (Action comics)


八百屋の息子で、音大浪人中の和音(ワオ)が、野球が好きな小学生の天才ピアニスト「うた」と出会って、共に成長する漫画だ。

うたが、八百屋でリンゴを選んでもらっている。ワオの親父がリンゴを指で弾いて、これがうまいと薦める。ワオも指で弾いて、別のリンゴを薦める。二人は自分が選んだ方がうまいといって口論する。二個のリンゴを持って帰る途中、うたは最初に親父さんが選んだリンゴを齧ってみて、目が覚めるほど甘くておいしいのに驚く。「ワオのはどうかな」と齧って、音がリンゴからあふれてきて、思わず涙が流れて、「ワオの音」とつぶやくシーンがある。説明が何もないので、読者が勝手に想像するしかないが、これはリンゴの食感や味、香りが、一種の音楽のようにハーモニーと刺激とをもって、彼女に感じられた、ということなのだろう。

のだめカンタービレ』が流行った頃、ネットで、「音楽漫画といえば『神童』だよね」という意見があって気に止めていた。さらに先日、映画化されて話題になった時に、私の中にインデックスがふられた。近所の本屋で文庫化されたものを見つけ、買って読んでみた。まず選曲がいい(以下のサイトにリストアップされているが、マニアックか?)。
http://plaza.rakuten.co.jp/fuyuhoshi/diary/200503160000/

以前、小説や漫画は、映画や芝居と違って音が出ないので、音や匂いなどを主題とした物語を描くのは不得手ではないか、と思っていた。でも今はそう思わない。音は観客の頭の中に現れるのであって、小説や漫画は、それを喚起するキーの役割を果たせばいい、と思うからだ。漫画は、観客に何かを引き起こす「鍵」として働く。その鍵が絵と言葉だ。人間は絵と言葉を受け取って、多量の経験を自分の中に作り出す。ただ、それらの種となるのは、それまでの読者それぞれの体験だ。

だから実際に音楽を聞いたり、野山で鳥の声を聞く体験と、小説や漫画で描かれた音楽を経験するのは、全く異なる。実際の音や音楽を聞く、というのは「種」を自分の中に蒔く行為で、それをもとに、小説や漫画で描かれた物語を彩ることになる。漫画や小説は他人が作った「物語」で、それを追体験するのにも、また自分自身で物語を紡いでゆくのにも、種が必要だが、物語を体験するのに、同じメディアが必要というわけではない。

NHKクローズアップ現代で、『バッテリー』のあさのあつこが、読者へのメッセージとして言っていたことが印象に残っている。曰く、『バッテリー』は私の(あさの氏の)物語です、みなさんには、借り物でない自分自身の物語を作ってもらいたい。

たぶん、物語の種は、すでに皆持っている。みなそれぞれの種を持っている。それを育て、自分の物語をつくる素地はできあがっている。「うた」は彼女の物語を、「ワオ」も自分の物語を作っている。私も自分の物語を描きたい、と思った。