ぼくらの七日間戦争

宗田理
ぼくらの七日間戦争 (「ぼくら」シリーズ)


初版発行は1985年だ。

1985年といえばバブル、トピックを列挙すると
 北の湖、柔道の山下が引退
 夏目雅子が死去
 8時だよ全員集合終了
 つくば万博
 電電公社がNTTに
 専売公社がJT
 芦屋市幼児誘拐事件
 ゴルバチョフ書記長就任
 東北新幹線の大宮--上野間が開通
 男女雇用機会均等法が成立
 日航機墜落事故
 阪神タイガース日本一
となる。

思い出して頂けただろうか。そう、あの頃の物語だ。今思うと大きく時代が動いていたのだとわかる。安定して発展を遂げているかに見えた日本が、何だか良くわからない状態に突入していった、あの時代だ。

物語は、中学一年生の英治が軽井沢への旅行を前に、行方をくらましてしまうところから始まる。母親がクラスメートの家に電話すると、そこも家に帰っていない。やがて、クラスの男子全員が行方不明であることがわかる。家族達が相談のために集まったところにFM放送が流れ、彼らが廃工場に立てこもり解放区を設立した事が宣言される。

私が最初に面食らったのは、その放送を聞いた親の一人が「日大全共闘じゃないの」と大声を出したときだ。

それから丸2ページが全共闘運動の解説にあてられている。日大闘争、バリケード、占有排除仮処分の強制執行、機動隊、大衆団交、東大安田講堂攻防戦、神田カルチェ・ラタン、武装デモ、オルグ、新安保条約、とくる。なんだこれは?

物語は、少年達の立てこもり事件を無駄無く描いてゆく。誇張があって漫画的ではあるが、全体に抑制の効いた醒めた視点で描かれている。いたずらというには真面目な、闘争というにはおちゃらけた、少年達の行動には変な屈折が無く明快である。

作者は明らかに少年達の側にあり、学校、市長、警察などは体制側、カリカチュアライズされた敵として描かれる。少年達に混じって、彼らに助力する浮浪者の瀬川という男がいる。戦中派の瀬川は明らかに作者の分身である。

1969年の安田講堂攻防戦から16年、作者の宗田は巻末のメッセージで「あの頃権力に立ち向かった、親たちの時代はかっこうよかった。」さらに「いまや競争に勝つことしか頭になく、子どもたちまでも受験戦争に追い込む。そんな時代になった。」そして現代はさらに酷くなったと書く。

主人公の英治をはじめ、思想的リーダーの相原、諸葛孔明ばりの秀才である中尾など、少年たちが分かり易く魅力的に描かれているのが印象的だ。学園物の漫画やアニメに出てくる少年たちのプロトタイプといっても良いだろう。全体として個々の人物の内面を深く掘り下げるのではなく、横顔をスケッチしたような作風になっていて、映画的もしくは漫画的だなと思う。

ところで、この本にも先日読んだ恩田陸の『ドミノ』同様に多数の登場人物が登場する。登場人物の描き分けという点では恩田陸に分があるが、登場人物の存在感という意味では宗田理の勝ちだ。それは、恩田がすでに依って立つべき何かを失った世代、私たちの世代にあって何とか物語をこしらえようとしているのに対し、宗田には自由と解放を目指し反戦を貫くという土台があるためだ。

宗田の立っている土台は現代の我々から見ると、ちょっとアナクロに見える。ただ、全編すっきりと貫かれて迷いが無いこの物語を読むと、「古い」と切り捨てるほどの何物も、今の自分が持っていない事に気付かされる。

発行当時から、2007年の現代まで、この物語は子どもたちの圧倒的な支持を受けてきたらしい。こういう形の児童文学もあるのかと妙な説得力を持つ物語だった。

この「ぼくら」シリーズは全部で29巻もあるらしい。その多くに「ぼくらの」と名前がついている。そう、アニメーションが放送された漫画『ぼくらの』は、このシリーズをきっと意識している。現代の少年少女が、今の視点で、戦いの中におかれる時、どうなるのかを描いているのが『ぼくらの』だ。

この『ぼくらの七日間戦争』に比べて、『ぼくらの』は、ずいぶんと暗く、多様な袋小路に追いつめられた話になっている。この20年、子どもたちにとって時代は良い方向に進んできたのだろうか。いつの時代も少年少女たちは、その時代時代をサバイバルしている。きっと、いつまでたっても楽になることは無いんじゃないか。そんな気すらする。そういう時、この物語を読むと作中で母親の一人が言う、次の言葉が信じられる気がしてくる。

「いまの子どもはもっと利口ですよ。もう少し信頼した方がいいんじゃないですか?」

親ができることなど限られている。児童文学には今をサバイバルする子どもたちの戦術書としての役割もあるのかもしれない。