攻殻機動隊 Stand Alone Complex - Solid State Society

神山健治
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society [DVD]


NHKで放送された『精霊の守り人』の監督である神山健治が、その製作に入る直前に作ったのが、この攻殻機動隊 SAC-SSSだ。SACのファンには大変評判が良かったので、見てみた。結論から言う。面白かったが、そう騒ぐほどのものではない。製作費に3億6千万もかけたとのことだ。作画やCGなどに、地味にお金がかけてある。ストーリーも全体に渋めで、盛り上がりが薄いので、丁寧に作られた佳作といった感じだろうか。地味目の近未来SFを見たければ、お勧めできるが、派手な映画を期待すると肩すかしを食う。またSACのシリーズ同様に、わかりづらい固有名詞が多々現れて、説明はそっけないので、親切な映画を期待する向きにも薦められない。

副題はSolid State Society(半導体素子社会?、固体化社会?)、ネタばれになるので、このテーマに関しては後述するが、少子高齢化に対する神山らの想像力の帰結だ。こういうのもあるかもな、と思った。よく考えてある。

攻殻機動隊とは何か語る必要はもうないだろう。ググればいくらでも出てくる。私自身も『イノセンス』やSACの感想の中で述べた。

近未来SFというのは、いつも現代に追い抜かれる心配がある。未来を描いたつもりが、時代の方が先行してしまって、あったかもしれない過去の物語、それも陳腐な物語になってしまうというものだ。

このSAC-SSSでも、人間の全身サイボーグ化は、さすがにまだ先の未来だが、それ以外は、数年以内にも実現しそうな設定を扱っている。もしかすると部分的には現代が先に行っているかもしれない。その危うさは、この映画に関しては微妙にプラスに働いている。

ちなみにSACのシリーズは、押井の『攻殻機動隊』および『イノセンス』とは、同じ設定ながら無関係なストーリーになっている。『攻殻機動隊』の中心である「人形使い」が登場していない。ただ、どちらも士郎正宗の漫画をもとに膨らませたものなので、同じシーンが全然違う役割や味付けをされて画面に現れる事がたびたびある。その感じは音楽での「リミックス」を彷彿とさせる。何度も何度も同じ旋律を別の形で味わいなおす。その繰り返しの感じ、全く同じではなくて、微妙に違う繰り返しに出会うというのが現代的だと思う。そもそも押井守が『ビューティフル・ドリーマー』で描き始めた、繰り返しの楽園、自己閉塞的な楽しみにループするという罠は手を替え品を替え私たちの日常に入り込んでいる。また、それを良しとする新しい文化も市民権を得つつある。または、一種の対位法とすら言えるかもしれない。


以下、ネタばれを含む。


さて、このSSSでは、SAC2のシリーズの物語が終わってから2年後という設定になっている。公安9課は、少数精鋭だった過去とは異なり、たくさんの課員により構成される形に変わっている。これはSAC2が終わった後、公安9課を率いていた草薙が行方不明になり、彼女の才能に多くを依存していた公安9課を立て直すためである。一人の天才に依存していた組織を、多数の凡人で支える組織に変えた。

この新しい9課を草薙に替わって率いているのはトグサである。トグサと言えば、リボルバーを愛用し、妻と子を持ち、一切のサイボーグ化をしない、最も人当たりの良いキャラクターであり、草薙をはじめ、ハードボイルドに徹したキャラクターとのバランスを取る立場にあった。その彼が、体を一部サイボーグ化し、リボルバーでない銃を手にしながら、9課を率いているという理不尽さ、居心地の悪さを、この映画はずっと抱えたまま進む。最終的に解消されるかというと微妙である。途中から草薙が再登場し、中心的な役割を果たすのだが、彼女が帰ってきて、9課はもとの鞘に戻るのか、トグサを中心に有機的に再構成されるのか、その解は与えられないまま映画が終わるからだ。

そのトグサの無理が、終盤のシーンでクライマックスを迎える。地味だが、この映画の中心となるシーンだ。ネタばれをすると、当然、草薙が悲劇を止めるのだが、それ以降の9課の姿が、今ひとつしっくりこない。

攻殻機動隊という物語は、登場人物個々の物語であると同時に、集団の物語である。特に神山はSAC、およびSAC2で何度となく、集団や、組織について語っている。曰く、良い集団、悪い集団とは、組織の定義は何か、中心の無い組織というのはあるのか、組織が発展する要素は、構成する個々人の意思を越えて集団が暴走を始めるのは何故か、といったことだ。

草薙のいない9課をちゃんと運営しようとすれば、たしかにトグサを中心とした大所帯というのは一つの解だ。そこに草薙が戻ってきたとして、バトーとタッグを組んで戦線を切り開いていったとして、果たして、どうなのか。組織の目的からすると、草薙の能力は絶対に欲しいだろう。またバトーが草薙とともに見せるバイタリティー、能力も重要だろう。前作までの9課は二人についてゆける、稀な能力を持った人間だけで構成されるグループだった。それに対し、SAC2の終盤で、荒巻は新人を9課に入れて、それがグループの足を引っ張るという展開があった。その頃から9課改造というのは、彼の視野にあったことになる。

これらの問題提起自体は面白いと思う。だが、映画の中で何も完結していないのが気になる。映画としてのまとまり、完成度にかける。


さて、「傀儡廻」にまつわる本編について書いてみよう。おもいっきりネタばれする。

テロリストたちを自殺の形に追いやって殺害する殺人事件や、大量の子どもの誘拐事件の元凶は、寝たきりの高齢者を自動的に介護するためのネットワークシステムの暴走だった。子どもを誘拐する目的は、身寄りの無い老人が、自分たちの遺産を国に召し上げられないように渡す相手を作るためで、さらにそれらの子どもたちは児童虐待のため保護が必要という理由もあった。児童虐待にあっている子どもたちを救って、寝たきり老人たちの思いを叶える、というのが暴走をはじめたシステムの目的だった。

ところが、この誘拐システムは、ある政治家によって別の目的に使われるように変わっている。それは児童虐待と無関係に、子どもを誘拐し、洗脳して、エリートを養成するという目的だ。暴走システムの起案者および賛同者(寝たきり老人たち)は、この目的変更を阻止したいと思っている。

そして、この介護システムを構築、さらに暴走を企画したのは、ある公務員であるが、実はその人物はすでに死んでいて、草薙の意識(ゴースト)の一部が、勝手に動き出したものだった。

なお、誘拐の手口は、電脳化した親達をハッキングして、子どもを病院に連れて行って子どもを電脳化し親子の記憶を改ざんする、というものだった。その手口にトグサが嵌ってしまい、あわやとなるのが上述したクライマックスだ。

さて、こうやって解説してみると、実に複雑な設定であることがわかる。2時間ほどで説明するには、あまりにゴチャゴチャしている。一応わかるようには作ってあるが、相当に舌足らずで分かりづらい。マニアが何度も繰り返して見る事を想定して作っているのかもしれない。素人さんお引き取り、といった感じだ。設定は良いとしても、もう少しシンプルな話にできなかったのだろうか。

また誘拐の手口で、記憶が簡単に改ざんできるというのが、世界観を壊している。この記憶改ざんという設定は、過去幾度となく映画や小説に出てきて、あやうい状況、多くの場合、物語世界の破綻を生んできた。攻殻機動隊の世界では、様々な電脳関連のイリュージョンが登場するが、記憶改ざんはできるだけ避け、使うにしてもチョイネタでしか使われないようになっていた。それは記憶改ざんという設定が危険だからだ。

ちなみに夢落ち並みのタブーに、もう一つあると私は思っていて、それは、そっくり人間だ。見た目や行動が全くそっくりの人間(もしくは人間もどき)が、何人もいるという設定を登場させると、物語は破綻する。

ここでは、物語の中心、子ども誘拐事件に記憶改ざんが必須になっている。それも自分の子どもや親に関する記憶だ。それが政府の手によって容易に改ざんされる、というのはやり過ぎな設定だと思う。それが複雑な設定の嘘っぽさを強くしている。

以上、いろいろと不満点をあげつらってきたが、熱心に見たがゆえの文句だ。私は、この神山健治という監督に期待をしている。彼の作品、および言っていることは、私の腑に落ちるものが多い。また力もある。だから苦言を呈した。きっと、私が自分で作りたいような、そしてそれを遥かに上回る面白い作品を作ってくれると思っている。