パプリカ

筒井康隆
パプリカ (新潮文庫)


私の友人に、素面のときは大変にこやかで真面目な紳士だが、酒が入ると驚くほど雄弁に卑猥な妄想を語る人がいる。その妄想を聞きながら、なんだか懐かしいな、と思っていたが、そうだ筒井康隆の小説がまさに妄想小説だったのだと思い出した。

今敏がアニメ映画化した筒井の小説だ。筒井の小説を読むのは久しぶりで、学生の頃以来かもしれない。この小説は面白かったが、楽しめない人も多くいるだろう。筒井康隆の小説を読んだ人ならわかるが、彼は読者を平気で突き放す作家だ。それは小難しい理屈を並べたり(精神分析学に関する用語が多数出てくるが)、ジャーゴンにまみれさせたりするのではなく(夢を見る装置に関する造語が多数出てくるが)、文章自体は平易で、内容も充分にわかって、ストーリーも充分にページターナーであるのに、そういう意味では充分にしつらえられているのに、読者が付いてゆけないところまで行ってしまわないと気が済まない。そういう作家だ。走って走って、伴走していた読者が一人「あ、そこはちょっと」、また一人「それはひどい」と付いて来れなくてしゃがみ込んでも、まだ走って、最後の一人が付いて来れなくて、「もう勘弁してください」というまで走り抜けて、そのまま走って行ってしまう。

実をいうと、私の中で彼は過去の作家、もうほとんど歴史上の人物になっていたのだが、全くそんなことはないのに読んでみて気付いた。いや、この年齢だから初めて読めるのかもしれない。

読み始めて最初に感じたのは、文章が綺麗な日本語だということ。当たり前というなかれ、まともな日本語で小説がかける作家など、実はそう多くない。新聞や週刊誌のようなジャーナリスティックな書きなぐり言葉か、妙に手癖のついた思い入れ濃い文体ばかりだ。今回読みはじめるまで、私の中で筒井というのは、ジャーナリスティックな文体を使う人だと思い込んでいたが、今読んでみると、実はかなり丁寧で見通しの良い日本語を使う人なのだとわかった。きわめて常識的な文章である。筒井といえば変な擬態語、ガゴゴガゴとか、グヘグヘとか、を使う人ということも、そういう印象を自分に持たせた理由の一つだが、実は端正とすら言える文の中に、突如こういう擬態語が登場するがために、やたらに卑猥な印象を受けるのだとわかった。

さて、本作を一言で言うと、男の妄想を小説にまで昇華させたエンターテインメントSF、というところか。お子様厳禁だ。連載していたころの「マリ・クレール」は、ファッション雑誌というよりは、かなり硬派な雑誌だったのを憶えている。

男の妄想なんて、まぁしょうもないものだ。例えばハードボイルドというのは、典型的な妄想小説で、その主たる目的は男がそのスタイルに陶酔するために作られる(女性用のがハーレクインかな?)。それを原寮などは格好良く「ハードボイルドの主人公は、次から次に現れる難問に完璧な答えを出しつづける」などと書いている。完璧な答えって、そんな合理的に考えればどうでもいいようなことを、いかに格好つけてやるか、っていうだけだ。ハードボイルドが嫌いな人には、ほんとに臭くてたまらないだろう。

『パプリカ』も、ある意味、ハードボイルド小説と同様に、妄想全開な小説である。が、筒井はその妄想を隠し立てする事なく、開けっ広げにわかりやすく書いて、さらにそれを過剰に拡張する。筒井は妄想を扱った悲喜劇を今まで色々書いてきたが、これはそれらとはちょっと違っていて、多数の妄想が物理世界にまで、はみ出して暴走した世界を描くのが主眼である。

舞台は東京、主人公のパプリカは、夢に侵入して、精神病の治療を行う特殊なセラピストである。このSFでのギミックは、他人の夢を映像化できる装置(装置A)、他人の夢に介入できる装置(装置B)、さらに無線で寝ている人間同士に、夢の世界を共有させる装置(装置C)である。A, B, Cの順で技術的に高度な上、影響が大きい。基本的にはこれだけで、他は現代の我々と同じ世界を描いている。筒井の見事さは、こういう装置があった場合の架空について徹底的であるという点だ。

始まりは、かなり丁寧な近未来SF、ミステリー、ハードボイルドといった趣きである。パプリカの最初のクライアントである能登の話は、感動的ですらある。それが徐々に小説世界が妄想に浸食されてゆき、第二部以降は、いわゆる普通の小説のしつらえが崩壊して、行き先の良くわからない暴走を始める。物語は妄想に満たされて、現実と夢と妄想とが混じり合って、走ってゆく。

SFギミックの使い方、ハリウッド映画とは違うストーリー展開の妙、読者を惹き付ける下世話ながらユーモアのあるサービス、品格の高いストイックとすら言えるファンタジーなど、まだまだ筒井から学ぶべき物は多い。