「青山二郎の眼」展

http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/462.html
白洲信哉


白洲信哉というディレッタントがいる。モーツアルト似のぎょろっとした眼で、俳優といっても通じる雰囲気の男だ。1965年生まれ。彼が、講談社の『最高のサービス』というムック本で、血統の良さ(小林秀雄の孫、白州正子の孫)を随所に感じさせながら、以下のように語っている。


一流の店でも、近所の喫茶店でも、限られた空間の限られた時間の中で、そういう心のやりとりができる人と出会えると、とても嬉しい。(中略)真のサービスとは相互作用によって生まれるもの。店の格とは関係ない。

その彼が企画した「青山二郎の眼」という展覧会に行った。滋賀県から全国を巡回して、東京では松濤美術館世田谷美術館で開催された。

骨董好きの人からすると、非常識と思われるかもしれないが、私は青山二郎がどういう人なのか知らなかった。柳らの民芸運動の初期に関わって離れ、一人の目利きとして「骨董」を完成させた人らしい。文章家としても活躍した人らしく、展覧会の随所に、彼の言葉が掲示されていた。例えば。


優れた画家が、美を描いたことはない。
優れた詩人が、美を歌ったことはない。
それは描くものではなく、歌い得るものでもない。
美とは、それを観た者の「発見」である。創作である。

青山二郎、そして、白州信哉に共通する土台は、

 高い品質は、出会いの中に生まれる

という考えだ。

誰もが認める高い価値、そしてそれに連なる価値のメジャーがあるのではなくて、人と人、人とモノの出会いの中の、一期一会として価値が発生する。青山二郎は、千利休ではないが、モノにもともと纏わりついていた値段や価値を無視して、自分の眼で美しいものを見いだしていった。だから、展示されているものは、そこらに転がっていたようなものから、当時既に極めて高価だったものまで、それまでの素性はバラバラだ。しかし、並べられた品々の醸し出す高いクオリティは、いずれも半端でない。中国古陶磁、李朝、日本の骨董があったが、どれも焦点の合った、明快で魅力的な個性を示している。

写真で伝わるか自信ないが、例えば以下の写真をご覧いただきたい。

紅志野香炉
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高さ7〜8cmほどの小振りの香炉で、宇野千代白洲正子に愛されてきた可愛らしいものだ。

さて、ちょっと話はそれるが、娘が夏休みの読書感想文を書いていた。対象は『モギ --ちいさな焼きもの師--』だ。彼女が読書メモを手に悩んでいたので、そのメモの中にピックアップされていた、あの「粘土の細かさ」をモギが会得するシーンを題材に、二人で話をした。

世の中には大きく二種類の「理解」がある。一つは学校で習うタイプの、レンガや積み木を積み上げてゆくように、一つ一つ積み上げてゆくと理解が深まってゆく理解だ。もう一つは、鉄棒の逆上がりや、自転車に乗れる時のような、主に運動に関わる理解で、何度も何度も繰り返して、しかし繰り返している間は、ちっとも上達したように思われなくて、でもある時、ピョーンとステップアップする。

このピョーン型の理解は、既にわかった人にとっては、白黒の碁石の違いのように明快だが、まだ分かっていない人にとっては、どうやっても分かりようがない。すでに会得しているトゥルミ爺にとっては明白だが、そのステップに達していないモギにとっては全くわからない。そして分かるためには繰り返し繰り返し経験するしかない。理解したから偉いとか、凄いとか、そういうのではなくて、分かるか分からないか、その違いがあるだけだ。

芸術や工芸の良し悪しは、このピョーン型の要素が強い。トゥルミ爺の高麗青磁の良さは、わかる人には、あまりに明快な良さだ。そしてそれはモギもわかっている。だからたった一片の青磁のかけら(A single shard)を後生大事に抱えて、監査官へミンのもとを訪れ、監査官本人に見てもらおうと意地を張る。なぜなら、分からない人にとっては、ただのゴミで、眼のある人が見れば良いものであることが明白だからだ。

青山二郎という人は、さまざまなモノに対して、その形や色、素材の醸し出す違いを「理解」できる眼を持つ人だったようだ。たぶん、彼にとっては、彼が選んだ品の良さは、交通信号のように明快で見間違えようがなかったのではないかと思われる。

さて、そこで、その彼が選んだ品々を、見て楽しんでいる我々がいる。品の良いご婦人方が、まるで長い事会っていなかった肉親に会うかのように、作品の前にたたずんでいる。思わず声を出す人も少なくない。一見してその道の人とわかる、年配の男性が鋭い眼で、作品を射抜いている。

私たちは果たして何を楽しんでいるのだろう。展示されている作品の多くが、手に取って、使ってみて、眺めてみたい、さらには所有してみたいと思わせるものであるのは確かなのだが。ここには分かり易い価値基準といったものは存在しない。いろいろな良いものがあることはわかる。

たぶん、世の中にはたくさん良いものがあって、それに出会い、味わえることが生き続ける喜びの一つだということなのだろう。中に、類品を圧して魅力を放つモノがある。そういった品を見いだせる眼を持って、出会えることが、これから先もきっとあるに違いない。