生物と無生物のあいだ

福岡伸一
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)


今年(2007年)の新書界でのニュースともなった一冊である。面白い上に、深みがあり、色々な事を考えさせられる。バイオ関連の専門的な内容が盛り込まれているが、かなり間口を広く、敷居を低くしてあるので、科学に興味のある人なら理解し、読み通せるだろう。

まず、冒頭の野口英世の話が見事だ。映画にでもしたら格好良いだろうな。日本ではお札にまでなっているが、野口英世は海外ではほとんど顧みられない存在になっている。彼が活躍したアメリカの研究所には、彼の胸像があるらしいのだが、誰も知らない。実際、彼の研究成果は、ほとんどが間違い、勘違いという。なぜか。彼は見えない物を見たと思い込んでしまっていたのだ。まだ原理的に見えない時代にいたのに、その見えないものを見たと思い込まざるを得ない状況で突っ走っていた。成果を誰よりも先に上げようと、カリカリして勢い込んでいた。だが彼には天使は微笑まなかった。

二重らせん発見にまつわる逸話も見事だ。結晶を作り、それが発する模様を、黙々と記録しつづける女性研究者、その模様に隠された重大な意味、研究者たちの駆け引き、スリリングな展開は、これも映像的だと思う。地味で緻密な話と、研究者たちのどろどろした業績欲、また我関せずといったワンアンドオンリータイプの研究者の横顔が、入り交じって、単調でない、複雑な味わいになっている。

そして何より、後半に描かれる「生物」と「無生物」にまつわる話が魅力的だ。人間の体の細胞は、1年間で、新しいものに入れ替わる。つまり昨年の私と、今年の私は物質的には別物である。それなのに、私の体には何十年間もの継続性がある。これは例えば、人の形をした砂の固まりが、常に体の砂を吹き飛ばしながら、新たに足下の砂を補給しつづけ、瞬く間に砂がすべて入れ替わるのに、それでももとの形を保ち続けているような話だ、と書かれている。一種不気味な一貫性とすら言える。本書では、動的平衡と言う。

最近、ファンタジー小説に限らず私が求めているものに、「平面からの離脱」というのがあるように感じている。ファンタジーの場合は、緻密に作られた小説世界に入り込んだ、ある異界の原理が、世界に立体的な高さをもたらす。平面的に因果を結んでいた話の中に、空間を飛び越えて繋がる別のルートが生じる、その面白さである。科学に関する良くできた書物には、同様の垂直に伸びる、今まで見えなかった、新しい展開を感じさせるものがある。突然世界が広がった感じだ。ただ一般には、小説のようなテクスチャ、手触りや空気感といったものは、科学読み物には期待しづらい。が、この新書には、その両方がある。