老人とカメラ -散歩の愉しみ-

赤瀬川原平
老人とカメラ―散歩の愉しみ (ちくま文庫)


あいかわらず写真を撮るのが好きだ。まぁ、それでも、重たいカメラを担いで撮影しようという気には、もうなかなかなれない。小さなデジカメをポケットに入れて散歩するのがせいぜいだ。でも、愛用のHEXARを持ってゆけば、写真を撮るのはずっと楽しくなるのはわかっている。良く出来たフィルムカメラには、写真撮影の楽しみを演出する知恵が詰まっている。赤瀬川氏などは、もう、面倒な方が楽しい、と言い切っているが。

この本は、赤瀬川原平が書いたカメラにまつわる写真エッセイである。100枚以上もの写真が載っている。脱力系の、VOWに載っているような、思わずヘナヘナと笑ってしまう写真だ。

私は以前、樋口聡『散歩写真のすすめ』と、丹野清志『散歩写真入門』『コンパクトカメラ撮影事典』について書いた。その中で、樋口氏の洒落者めいたスタイルには共感できず、丹野氏の、撮影行為そのものを楽しむというスタンスに共感すると言った。赤瀬川氏は、どちらかというと丹野氏に近いが、さすがにアーティストであって、ある意味スタンスは高い(もしくは自由)。

彼は、カメラを持ってうろついていると、時々、きょとんとするような、虚をつかれる光景に出会うという、「なんだこれは?」とか「うぬっ?」というような。思わずシャッターを押している。後から徐々にその、唖然とさせた原因が了解されてくる。若い頃は、頭が先に走って、きょとんとできない。老人力がついてくると、自在にきょとんとできるようになる。この日常の思考の流れが、ふっつりと途切れる瞬間が好きで、これを味わえるのが、散歩カメラの醍醐味である。

これは良くわかる。道を歩いていると、普通は目的、例えば地下鉄の改札に向かっているとか、買い物をする店に向かっているとか、そういう目的があるので、体と頭が効率的な流れに従っている。よく考えてみると、実は膨大な情報処理をしている。買い物の順番とか、必要性とか、時間の見積もり、財布の中身、一緒に行動している人の意向や感情、すれ違う人々の動き、服装、道の曲がり角、信号機の状態などなどを同時に処理しながら、歩いているので、いちいち意識していたら歩けない。

だから一種、自動的に体と頭を動かしている。そこにカメラが入ると、すべての流れが一時的にせき止められる。ファインダーの中の切り取られた異空間に立ち止まることになる。そのきっかけの一つに、赤瀬川氏言うような「きょとん」もあるだろう。虚をつかれた時、人間は、すべての活動を待機状態にする。自動処理にストップをかける。

体の自動処理は楽で便利だが、知らぬうちに無駄に自動化されていることがある。無意味にかもしれない。慣れたやり方を変えられなくなっているような状態だ。アート、というのは、私たちの通常の生活、通常の運動に、ふと立ち止まる別の視点を放り込んでくる。その意味で、赤瀬川氏のスタイルは、やはりアーティストだ。

私の場合、きょとんとするのも、もちろん面白いが、しっとりしたり、きらきらするのも良いと思う。日常の乾いた最適化された思考の流れを、すこし緩めて、落ち着かせたり、少し華やぎを与えたりする、散歩カメラにはそういう良い点もあると思う。