西田幾多郎<絶対無>とは何か

永井均
西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

私は哲学の本を読むのが好きです。なので色々手を出してはいます。ただ西田幾多郎はさっぱり分からなかった。

この本の冒頭でも書かれていますが、西田の文章は、日本語とは思えないほど読みづらく、わかりづらい。30ページほど我慢して読んで挫折、というのを何度か経験していました。ただ、なんとなくフィーリングとしては、私の考えに近いような気がしていて、いつか再チャレンジ、と思っていました。そこに横から救世主が。

永井均氏は千葉大の哲学の先生で、私は彼の『ウィトゲンシュタイン入門』『<子ども>のための哲学』『私・今・そして神ー開闢の哲学』を読んでいます。どれも、平易な文章でありながら、ドキドキさせる深い内容が書かれています。ファンと言ってもいいかもしれない。彼が西田幾多郎の入門書を書いているのですから、これは読まねばと思い購入しました。結果、期待に違わぬ本でした。以下、私の理解を少し書いてみます。


私(もしくは意識)などというものはありません。経験があるだけです。もしくは経験が、すなわち私だ、とも言えます。こう書いてくると、昨年末にレビューを書いた中村昇の『錯覚する脳』や、ホワイトヘッドを彷彿とさせますが、実際、永井が描く西田哲学は、とても近いところにあります。

「私が、雷の鳴っているのを聞いた」ではなく、「雷が鳴っている」だけであって、それがすなわち私です。「長いトンネルを抜けると雪国」なのであって、「列車が長いトンネルを抜けると」でも、「私が長いトンネルを抜けると」でもありません。

私は、私の中では対象としては位置づける事ができません。何も無いルート(根)にあたります。世界はすべて、そのルートに繋がる枝葉として把握されていて、しかし、枝葉にはルートだけはありません。場所とは、このルートに繋がるすべての枝葉であって、枝葉が広がる場所です。


後半に出てくる汝(あなた)の話も見事です。その枝葉の繁る中に、あなたが出てくる。そのあなたは、少なくとも私の中では、私と同じく何も無いルートに連なる枝葉であって、つまりは根っこに無である私をかかえている。私である場所の中に、無を従えるあなたが含まれているという無限の入れ子構造になっています。

では、あなたを位置づけることができるのは何故か、単に経験だけからなる筈の場所の中に、あなたが現れるのは、概念を扱える言語なるものがあるからです。逆に言えば言語は、あなたという不可思議な存在があるから生まれたものだとも言えます。あなたと言語は不可分です。