錯覚する脳とホワイトヘッド (その2) 物の色

錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だったホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)


真っ暗な部屋の中だと物は見えない。見えるのは自分から光を出している物、つまり明かりだけだ。部屋の電気をつけると物が見える。だから物の色は、明かりから出た光が、物の表面や内側で反射した光の色だとわかる。では物の色は、明かりの色と同じか、というと、そういうことはなくて、色々な色がある。

最近、生で見ていないけれど、薔薇(ばら)の花というのがある。赤い薔薇の花びらは、赤い。生で見ると、その迫力というか妖艶(ようえん)さが迫ってくるような色だ。この赤というのは、明かりの色が花びらで反射するときに、赤い光、つまり波長の長い光を良く反射して、青い光、つまり波長の短い光はあまり反射しないので赤く見える。この光の反射の特性を、分光反射率(ぶんこうはんしゃりつ)というけれど、この言葉は知らなくても良い。

物にはそれぞれ、どの波長の光は吸収して、どの波長の光は反射するかという性質がある。その特性は、例えば600nm以下は一切反射せず、600nm以上はすべて反射する、というような潔いのではなくて、グラフで描くと、ぎざぎざした曲線になるような、複雑な反射をする。つまり、もともとの明かりが、色々な波長の光の集まりであったので、反射する光も、色々な波長の光の集まりになる。

プリズムで分解した赤色と、薔薇の赤色は、だから同じ赤でも大分違う。薔薇の赤は、700nmぐらいの波長の光を中心として、たくさんの光が混ざった光の色だ。物の色が、明かりの色によって変わるのは、これも皆良く知っている。料理は蛍光灯じゃなくて、白熱球の下で見たほうが、ずっとおいしく見える。なぜかというと、物の色は、明かりの色が反射しているのだから、明かりの色に無い色は、どうやっても反射しようがないからだ。

赤が含まれていない明かりで、赤い物を照らしても、赤が反射しないから、赤く見えない。赤いのに赤く見えない。太陽の光には、人間が目に見える色が全部入っているので、赤い物が赤く見える。これは太陽の色でもある。太陽の光の中から、薔薇が赤い色を選んで、我々に届けてくれているのだ、とも言える。

色々な明かりの下で、物の色がどういう風に見えるかは、この波長ごとの反射の性質がないと、わからない。分光光度計(ぶんこうこうどけい)という機械があって、これは安くても何十万円、高い物は何千万円という高価な機械だけれど、これを使うと、この反射の性質を細かく調べることができる。私は触ったことがない。

さて光の性質としての色の話はこのくらいにして、次から、人間の目と、画像の話に移る。ここからが本番だ。

(つづく)

錯覚する脳とホワイトヘッド (その1) 明かりの色

錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だったホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)


明かりに色があることは誰でも知っている。太陽の光は白く、真夏などは青白いと思えるほどだ。もちろん眩しさ、光の強さもあるが、色もある。朝や夕方は赤い。赤黄色いという感じか。季節や天気、空気によってずいぶん色は変わる。冬の関東の朝夕の太陽は格別だ。電球にも色がある。白熱球はちょっとオレンジっぽい色だ。もちろん白に近いのや、青白いのもあるが、普通に買って使う60Wとかの白熱球は、真っ白ではなくてオレンジっぽい。それに比べると、蛍光灯は白いのが多い。ろうそくの光は黄色から橙色に近い。舞台照明では、ライトの前に色フィルタをくっつけて、色つきの光源を作り出す。赤や青や、さまざまな色の光が投影される。またレーザーには赤、緑、さらに青紫色のレーザーまで作られている。

この明かりの「色」とは、何だろうか。

光というのは電磁波(でんじは)の一種だ、というのは学校で習う。ただここでは、電磁波のことを詳しく知る必要はない。空中を伝わる波の一種だというのが分かっていればいい。波なので、水面の波とおなじく、波の山と、波の山の間隔と、それから山の高さにいろいろ違いがある。さざ波は間隔が狭くて、高さが無い。大波は間隔が広くて、高低差がとても大きい。この山と山の間の長さを波長(はちょう)という。こっちは色の話を分かるのには大事だ。山の高さを振幅(しんぷく)という。こっちは光の強さに関係するけれど忘れてもいい。

小学生の時に、プリズムで太陽の光を虹にしたことがあるだろう。プリズムって秘密めいて、いいよね。白い太陽光が、赤やら黄色やら、緑やら、青やらのグラデーションになる。継ぎ目の見えない大変綺麗なグラデーションだ。この赤は、波長が長い。青は短い。赤の山と山の間の長さは、700nm(なのめーとる)ぐらいだ。700nmってのは、0.0007 mmだ。すごく短い。青は、430nmぐらい。赤より、さらに短い。もしちょうど波長が700nmの光があれば、その光は赤く見える。430nmの光があれば青く見える。

色と波長は関係がある。

プリズムは、きれいに面が削られている。光は、この面を通るときに曲がる。その曲がり具合が、波長によって違う。波長が短いほど曲がりやすい。プリズムから出てくる虹は、曲がり具合が違う光が並んでいる。グラデーションに隙間がないので、太陽の光には長短さまざまな波長の光が漏れなく入っているのがわかる。虹は波長が長い方から、短い方へ行儀良くならんだ光だ。それが混ぜ合わさって、白い太陽の光に見えている。電球の光も、同じようにプリズムを通すと虹になる。ただ太陽の光ほどきれいな虹にはならない。赤が強くて、青が弱い虹になる。蛍光灯の光から虹を作ることもできるけれど、これはあまり筋がきれいじゃない。赤が暗くて、緑や青が強い虹になる。最近は太陽光に似た色の電球や蛍光灯もあるけれど、虹にしてみると太陽光とは大分違うのがわかる。プリズムがない人はCDやDVDに反射する光で虹を見ることができる。

明かりの色は、詳しく見ると、この虹のように色々な波長の光が混ざったものだ。虹は明かりの正体と言ってよいと思う。なぜ違う虹になる光が、同じような白い色に見えるのかは後で話そう。

次は物の色のことを話す。

(つづく)

非属の才能

山田玲司
非属の才能 (光文社新書)


「非属」というのは、群れに属さない、という意味だ。最初のページに以下のように書かれている。


・「空気が読めない奴」と言われたことのあるあなた
・まわりから浮いているあなた
・「こんな世の中おかしい」と感じているあなた
・本当は行列なんかに並びたくないと思っているあなた
・のけ者になったことのあるあなた


おめでとうございます

こういう事を言うと、いまちょうど高校受験のため、夜中まで塾に行っている娘に、申し訳ない気もするが、学校というのは本当に変な所だ。エネルギーの塊のような若い連中を、4〜50人も閉じ込めて、右向け右、左向け左と年がら年中同調を求める。

私が学校に行っている頃、また就職してからも、嫌いな言葉がある。「普通、そうじゃない」というやつだ。普通はそんなことしないとか、普通じゃないとか、普通に考えろよとか、普通やってるぞとか、まぁバリエーションはたくさんあるが。一般に否定的な意味で使われる。普通ってなんだよ、てな感じで反感を持った。それなのに、いまや私も職場では、必ずしも異端児を許容できる人間ではなく、組織として大丈夫か、という「普通」を同僚に強要することがある。なんというか「普通の人」を演じていることがある。

この本は、世間、世の中、先生、親、上司の示す、当たり前に従えない連中へのエールである。

著者は『ゼブラーマン』を描いた漫画家で、世界中の非属の才能にインタビューをし、それを漫画にしている。チベットの高僧から、歌舞伎町のホストまで、ありとあらゆる人に会った経験に裏打ちされた言葉は、狭い社会で汲々としてきた小さな常識を打ち壊す説得力を持っている。

次から次に刺激的なフレーズが出てくる。

  • みんなの行く方向にただついていくことに慣れてしまうと、正しいとされることを必死で努力しているのに、いつまで経っても報われない事態になることが間々ある
  • その時点で、いつの間にか人生の定置網にひっかかっていたのだ
  • 問題は、医者や弁護士や東大生や電通マンになる試験はあっても、ブルース・リーになる試験はないということだ
  • 大半の人は、「ただなんとなく有名だから」といった漠然とした理由で定置網にはまり、そのなかでうさぎ跳びをしながら、出る杭に嫉妬している。

すべてに同意できるわけではないが、多くのフレーズに共感を憶える。

このような「人と違う考え方を大事にする」とか「異端児であることに価値がある」という意見を聞いた時に、すぐに思い浮かぶ考えが、それが許されるのは一部の天才だけじゃないか、凡人で奇人だと単に迷惑なだけじゃないか、というものだ。例えば親としては、確率の低い天才の道で成功するよりも、多少なりとリスクの低い成功の道に行ってほしい、と思うだろう。

それに対し、山田氏は、次のように言う。


偏差値の高い大学を出て、誰もが知っている大企業に勤め、良家のお嬢さんと結婚し、高級住宅地と呼ばれる成城や芦屋に住む。本気でそういった人生が最上であると信じている人間が、僕のまわりにも腐るほどいる。(中略)彼らには、「良い群れに属さないと幸せになれない」という親からの呪いがかけられている。

そして、せめて良い群れに入って、苦労のない人生を送ってほしいという親心は、自分の子供の背中に「私は凡人」というタグを貼りつけているのと同じことだ、と言う。成功した異端児が珍しいのではなく、「子供が凡人になるのは、親がそう仕向けているからだ」と。

私も思う。もちろん世間が良いという生活や社会的地位に、大きな価値を見いだす人もいるだろう。ただ、それはどれほどのものか。金は大事だが、金で「やりがい」や「好奇心」は買えない。ほとんどの社会的地位は定年で消え去る。

ブランド品や高級料理など、他人が良いというものを、「他人が良いというから」嬉々として選ぶ人もいる。私には全くピンと来ないのだが、そういう人がいてもいい。ただ虚しくないのかなと思う。自分で良いと思うものを見つけて、それに時間と努力と金を投資した方が、私には楽しいように思う。

さて、この本の最終章で、山田氏は、世界を変えうる予備軍たる異端児たちに、非属の先輩として自分病という病を避けよと書いている。

  1. 自分病その1「私は変わっているんです」病
  2. 自分病その2「自分はいつも正しい」病
  3. 自分病その3「メジャーだからダメ」病
  4. 自分病その4「俺は偉い」病

本質的に非属の才能を持つ連中が、どこまで避けられるかはわからないが、私個人的には大事なことだと思う。こういう自分病の人の話は、評論家ぶっていて、うんざりする。山田氏は、自分病を避ける事は、非属の才能と両立しうるし、逆に視野を広くし、才能を伸ばすのに役立つと書いている。そうであってほしいし、そういう非属の才能が増えれば、日本もずいぶん楽しくいきいきとなるだろう。

東京奇譚集

村上春樹
東京奇譚集 (新潮文庫)


実を言うと、村上春樹を最後まで読み通したのは初めてだ。以前『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』を友人から薦められて、半分まで読み挫折した経験がある。その後も、数ページ読んだ小説はいくつもあるが、読み終わった事が無い。読まなかった理由は良くわからないが、単に遠かった。

そんな中、この本は出版された時にかなり気になった。毎日新聞の書評でも好意的なレビューが掲載されていた。東京を舞台に、「不思議な話」を描いた5つの短編から構成されている。ディケンズ、鮫、石、マンションの階段、名札と猿がそれぞれのキーだ。私は、まぁ言ってみれば、不思議小説愛好家、なので、その職業意識(?)から気になったのだが。文庫化されたのを機会に購入し、大阪までの出張の行き帰り、ほんの数時間で読み終わった。

最初に印象的だったのは、文章が見事に彫琢されていることだ。気負いの無い、何気ない文章だが、隅々まで心配りがなされていて、現代の文豪というにふさわしい。さらさらと、岩清水のようにのどを潤しながら、体にしみ込んでゆく。

次に登場人物の、頭の良さ、が印象的だった。学歴が高い、とか、勉強ができるという意味ではなく、ものごとを深く、かつ素早く、正確に考えることができる、という頭の良さだ。どの作品にも、こういう頭の良さの目立つ登場人物(おおむね主人公)が描かれている。それを読みながら、なるほど、こういう見方があるのか、たしかにそれは正鵠を射ているな、と思い、多少のあこがれと同時に、自分の身辺から少し遠い印象を持った。

そして、描かれている不思議についてだが、まずファンタジーではない。彼自身作品の中で自分がオカルトなどに全く興味が持てないプラグマティックな人間であると書いている。彼の文章には、人間の合理的思考への信頼、とでもいうべき素性の良さが鮮明に現れていて、さもありなんと思う。

ファンタジーを好んで描く作家は、多くは自分の夢想に心の半分を持って行かれている。逆に、それが鬱陶しく感じることも多々ある。私の好むのは、体の半分どころかほとんどすべてを夢想に浸されながら、それでもぎりぎりの合理的思考で、世界に自分をつなぎ止めようとする作家だ。まぁ、この話は別の機会に。

そういうファンタジーとは縁のない村上春樹が描く不思議とはどういうものか。それを見事に表すのが、冒頭の短編の前書きに書かれている、彼自身の経験談だ。ほんの数ページなので実際に読んで頂いた方が、味わい深いのだが、説明の都合上、簡単に要約する。

彼が有名なジャズクラブで、マニア好みのあるジャズピアニストの演奏を聞いていた時のことだ。そのピアニストの演奏に、村上はかなり私淑しており、すり切れるほどレコードを聞いているのだが、その日の演奏は残念ながら生彩を欠くものだった。彼は最後の曲を聞きながら、残念だなと思いながら、頭の中で、ここでそのピアニストが、あの二曲を演奏してくれたら心残りはないのに、と妄想していた。その二曲はピアニストの十八番というほどのものではなく、これまた一部の愛好家が好む渋い選曲で、当然、演奏を生で聞けることなど期待しようがなかった。ところが、最後の演奏が終わったすぐ後に、何故か、その二曲を続けて演奏してくれたのだそうだ。それも抜群に見事な演奏で。

単なる偶然、ただ天文学的にあり得ないほどの確率の偶然、それが村上の人生を、彩ってくれる。彼がこの本で扱う不思議は、おおむねこの路線である。基本的に自分の力で生きている、自分で考えて問題を解決しようと努力している人に、訪れる不思議、彼らの生活を破壊したり、極端に押し曲げてしまうほどの力はないが、確実に心に深く届く影響を与えて去ってゆく。そういう不思議を描いている。

もう一点、どの短編も、私が良く読むタイプの小説とは異なる、ある「運動」を持っている。それがたぶん彼の持ち味でもあると思う。読んでいると、不安定とまでは言わないが、多少曖昧な揺らぎを伴った歩行に似た形で、話が進んでゆくのを感じる。けっして駆け足になったり、逆に止まってしまうのではなく、かなり律儀に歩みが進んでゆく。そして、あるポイントに来ると、ストン、と落とされる。階段を一段踏み外したような、ストン、と落ちる感覚だ。その後は、またそれまでと同様のリズムで進んでいるが、確実にゆらぎが減っており、確かな足取りになっている。

私が好むのは、途中で、すーっと引き上げられるタイプの作品だ。視野に別の次元が入る。以前「平面からの離脱」という言葉を使った。垂直に伸び上がる、新しい軸、そのためには、単なる偶然であってはならない。理屈がつくか否かは別にして、ある意味、その瞬間は信じられる新しい事実でなければならない。そうであって初めて、垂直に新しい軸が現れ、世界が広がる。

この短編集に描かれているのは、それらとは見事に対照的な、ストンと落ちる不思議小説である。これはこれで面白い、また味わい深いと思う。村上には、彼が生きている世界に対する、深い信頼、もしくは信頼を持つべきという信念があるように思う。

それでも自転車に乗り続ける7つの理由

疋田智
それでも自転車に乗り続ける7つの理由


もう一度、自転車に乗ろうと思っている。すでに廃車寸前の古い自転車は粗大ゴミに出して、来年春、自転車を買うことを目指している。この本が、そのきっかけだ。

著者は、TBSのディレクターで、毎日、自転車で24kmの通勤をしている。その道(自転車ツーキニスト)のあいだでは有名人らしく、スキンヘッドが印象的なおじさんだ。しかし片道12kmって、ここ(喜多見)からだと、ちょうど新宿までだ。それはちと凄くないかい。

二段組み300ページ、かなり読みがいのある本だが、堅苦しい本ではなく、テレビ人らしく軽快な書き方がされている。また本の後半4割は、道路行政に関するある事件(後述する)の顛末にすべて割かれている。前半は、自転車生活に関する蘊蓄、自転車製造の現場(ブリヂストンシマノ)、自転車の歴史、ツーリング、自転車の買い方、自転車用語の基礎知識、と盛りだくさんで、たしかに著者が言うように、胸焼けするほどのボリュームだ。

SF作家の高千穂遙が、自転車で思いっきり痩せたのを知っている人がいるかもしれない。彼の『自転車で痩せた人』という新書が売れている。どのくらい痩せたかは、彼のホームページ(以下)をご覧あれ。大友克洋が「別人だと思ったぞ!」と驚いたという。
http://www.takachiho-haruka.com/mimiyori/mimiyori.htm
彼も疋田氏とは友人で、互いに刺激し合っているとのことだ。基本的な考え方が共通している。

さて、この本は色々面白いことが書かれていて、何よりもう一度自転車に乗りたい、と思わせたのは前半の自転車生活の楽しさ、面白さなのだが、以下は後半に書かれている、道路行政に関する話を紹介しよう。日本人なら皆知っておいた方が良いと思う重要な内容だからだ。

日本の歩道を見た欧米人、特にヨーロッパ人は「野蛮」と言うそうだ。それは、れっきとした車両である自転車が、歩行者と同じ場所を走っているからだ。日本にいると、これが常識と思ってしまうのだが、欧米的には非常識である。そういえばベルリンで、S.E.O.先輩と一緒に歩いている時に、自転車にひかれそうになったことがある。私は気付かない内に、自転車道を歩いていたのだった。先輩に注意されてはじめて、自転車と歩行者の道が分離されているのに気付いた。

日本の道路は、高度経済成長の過程で、自動車最優先で整備されていった。そして、その方向性を、既得権益の関係でなかなか方向修正できずにいる。細い道路にもどんどん自動車が入ってくるし、大きな道路は車線を最大数確保しようとして、歩道にしわよせが来るのが実体だ。その際、邪魔になるのが自転車である。自転車は車両なので、車道を通るのが原則なのだが、自動車の走る部分を広くとるには自転車を端に追いやる必要が出てくる。ところが車が路肩に一時停止や駐車していると、車道側に回り込まざるを得ないので、恐ろしく危険な状態になる。自転車乗りの人なら、あの後方確認しながら、ぶっとばしているトラックの前に出てゆく怖さを皆知っているだろう。

危険なので、日本ではどうしたかというと、歩道を自転車が通行できるようにした。それが1978年だ。歩道を自転車が通行するようになって、歩行者と自転車の事故が増加した。歩道を自転車が走るという特殊な環境のせいで、日本でだけ流行っている自転車がある。ママチャリだ。後ろ重心で、両足が常に地面に着き、せいぜい時速15km程度で、長距離走行ができない。まさに歩道専用自転車といって良いだろう。私も大変お世話になった。歩行者が迷惑を被る事がなければ、まぁママチャリが普及し、いびつな利用状況になった日本の道路も、それほど酷いとは言えないだろう。

ところが、環境問題とエネルギー問題により、時代が変わり始めている。私が属する電力業界では、電気自動車やPHEV(プラグインハイブリッド)の話が、ちょうどトピックだ。もちろん余剰電力の利用などで、電気自動車も問題解決に多少の寄与はするだろう。だが皆が皆、今の自動車の代わりに、電気自動車に乗ったのでは、問題を本質的に回避することはできない。問題を克服するには、自動車に乗るのを止めるしかない。

私は、すでにヨーロッパで多数の実例があるように、トラムなどの都市交通機関と、自転車、というのが、問題克服のための準最適解だろうと思う。そのためには、自動車の代わりとして使える自転車が必要になる。平均時速20km以上で、長距離を快適に移動できる手段としての自転車だ。残念ながらママチャリでは無理だ。ここから、ヨーロッパ並みの自転車レーンと、自動車規制、歩行者だけの安全な歩道、という三点セットが、理想の道路となる。

さて、2006年、道路交通法の改正が検討されていた。それもほとんど成立寸前まで行っていたのだが、2007年の2月頃に修正される結果となった。疋田氏らは市民運動の形で、この問題に深く関わっており、その顛末が詳細に書かれている。

純化して書くと、自転車を車道から閉め出す、というのが検討されていたのだ。自動車と歩行者だけの道にできるという法案だ。これは例えば高速道路のような、自動車専用道路の話ではない。普通の道がそうなるという話だ。もしそうなると自転車は歩道しか走れなくなる。

歩道では、歩行者との事故が懸念されるし、もちろんスピードは出せない。私は歩行者として、ママチャリとすれ違っても身の危険を感じることがある。つまり、上で述べた理想の道路の真反対の方向に進むということだ。

結果的に、この法案は、彼らの運動が功を奏したのか、理由は不明だが、撤回され、逆に、車道への自転車レーン設置の方向に徐々に動き出している。

疋田氏はこれを、「警察がパンドラの箱を開けた」と評している。現在の日本の道路の状況と、理想の道路との間には、さまざまな障害が横たわっている。帰結として、自動車の通行制限や、自転車の法律違反への厳しい罰則など、必ずしもハッピーではない道が待っている。それでも疋田氏は、この方向しかない、と言うし、私もそう思う。

いま自転車に乗っている人、自転車に乗ってメタボを解消したいと思っている人、環境問題に関心のある人に、ぜひ一読をお薦めする。

夫婦って何?「おふたり様」の老後

三田 誠広
夫婦って何? 「おふたり様」の老後 (講談社+α新書)


近所の本屋に行ったら、ベストセラーの棚のトップに上野千鶴子の『おひとりさまの老後』という本が並んでいた。タイトルは、この三田の本のパクリだな。しかし、おひとりさまの老後についても、もちろん色々と考えておくべきことは多いだろう。こっちは二人用、飛行機に乗る時に、羽田で買った。さすがに小説家だ。読ませる。

これから「おふたり様」がどんどん増えてくる。おふたり様、というのはレストランに夫婦二人で行くと、「おふたり様ですか?」と聞かれる事による。日本のこの50年の変化の一つの現れとして、核家族社会を牽引して来た大量のおじさん、おばさんが、「おふたり様」になるというのがある。子供が巣立つ時期や、退職年齢はあまり変わらないが、寿命が伸び、親戚とは離れて暮らしているため、長い「おふたり様」時代が訪れる。

三田は、特に男性に対し、考え方を根本から変えよ!、と警鐘を鳴らす。定年退職し、毎日が日曜日になって、部屋着のままでごろごろし、テレビを見ながら、昼飯はまだか、お茶、と言う。外に出るでもなく、家事を手伝うでも無い。そんな老人と、死ぬまで数十年も一緒に生活しなければならないとしたら。三田の描写はあえて単純化しているが、本質を捕まえて明快だ。さてどうする。

三田は家で小説を書く作家なので、おふたり様の先輩として、また自称達人として、この本でいろいろなノウハウを伝えている。具体的には本屋で立ち読みして頂ければと思う。

つい先日、出張のついでに実家に行き、父母と過ごした。母は社交ダンスの先生として、ほぼ毎日どこかで踊っている。父は父で、母の毎日の送り迎えと、老人会、ゴルフ会、町内会などの世話で、意外にも忙しそうにしていた。彼らは偉いよ。

振り返って私はどうかと考える。今は娘がいるが、遠からず「おふたり様」になる。私はご存知の通り趣味に不自由はしていないが、せっかくだから、やりがいのある、愉快な日々を過ごしたいものだと思う。

なお老後で気になることの一つに先立つもの、金がある。年金問題はいっこうに収まりを見せる気配がない。次から次に物の値段が上がり始めているのに、給料は上がらない。貯金は目減りするのが当たり前で、かといって投資信託や外貨預金で大損をした人もゴロゴロしている。

この本では金の問題はあまり取り上げられていない(インターネットの危険性に関する項目ぐらい)。一つは金以前に人間関係が破綻しては生きている意味が無いからだが、もう一つは著者が金に困っていないからだろう。

私の老後に対する考えは、「貧乏くさい」スタイルに、自分の生活と価値観をうまくシフトしてゆくことだと思っている。別名、自然派ロハス、エコライフ、スローライフとも言う。うがった見方をすれば、これらはいずれも「貧乏くさい」スタイルを、いかに格好良く、お洒落にするかということだ。物を買わないスタイル、エネルギーを使わないスタイル、ごみを出さないスタイル、マスメディアに依存しないスタイル、友人・知人とのコミュニケーションに楽しみを見出すスタイル、楽しい時間つぶしを安上がりにできるスタイルだ。

私は、今後の日本人のライフスタイルには、二つの流れがあると考えている。一つは、リスクを楽しんで、積極的に打って出て、成功と失敗の両方を感受しながら生きるビビッドなスタイルである。もう一つは、世界の長期の潮流にゆったりと乗って、リスクを最小に、しかし大きな成功もあきらめたナチュラルなスタイルだ。いずれにしろ、自分の身近の小さな社会、組織のみを見て、そこでのバランスに最大限の努力を払うことで、安心した老後を得るという、これまでの日本人の主要なライフスタイルは終わったと思った方が良い。

ビビッド派であれ、ナチュラル派であれ、広い世界に対する視野を持つことは必須である。その広い視野を持つための、安心できる土台として、おふたり様の基礎を見直すことが今求められている。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

内山節
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)


1965年まで日本人は、全国各地で、キツネにだまされていた。しかし1965年以降、日本人は一切キツネにだまされなくなった。

著者は、山野を巡って釣りをするのが趣味で、いまは群馬県上野村に家を持つ。彼は山村で村人から、キツネにだまされた、という話を良く聞く。ところが1965年頃を境に、そういう話を聞かなくなった。これは群馬県に限らず、全国の山村で、同じ状況だそうだ。今でも、キツネにだまされた、という話を聞く事はあるが、いつ頃かを確認すると、1965年以前だと判明する。この本では、その原因と考えられる時代変化を、複数の側面から分析し、さらに後半、歴史や現実の認識についての独自の考えを示している。

キツネにだまされなくなった、という現象は明快だが、その原因は鮮明ではない。そのため、けっして読み易い本ではない。特に後半の歴史哲学に関するところは、眠たくなる人も少なくないだろう。しかし、ファンタジーや児童文学に興味のある人には、ぜひ読み通してもらいたい。帯に高橋源一郎が絶妙なコメントを寄せている。曰く、


ぼくもたぶんキツネにだまされたりはしないだろう。そして、それがこんなにも重要で、悲しいことだとはこの本を読むまで知らなかったのだ。

日本人の中で何かが変わった。それを印象的に示す例が、本書後半に出てくる。明治時代、ある山奥の村に、外国人の土木系技師たちがやってきた。当時の村人は、キツネやタヌキやムジナに普通にだまされながら暮らしていた。ところが、この外国人は決してだまされることがない。そのため村人は、彼らが「だまされない事」を驚きをもって記憶し、語り継いだという。

もうこれは事実がどうかといった次元ではなく、違う世界に住んでいるということだろう。最後あたりにショーペンハウエルの「世界はわが表象である」という言葉が引用されている。世界とは、何か既定のものとして、人間とは別に存在して、そこに人間がプラスされて、感覚器を通じて理解するものではない。人間がいるから世界が存在する。この話は、近々紹介予定の『錯覚する脳』(前野)や、ホワイトヘッドにも通じる話だ。

私たちは、自分が理解したいように、世界を把握している。自分が見たいものを見ている。だから、見たいと思っていないものは見えない。キツネにだまされなくなってしまった、というのはそういうことなんだ。