やさしさの精神病理

大平健
やさしさの精神病理 (岩波新書)

森氏の本にも引用されている1995年発行の岩波新書、名著です。ベストセラーになったように記憶していますので、既読かもしれません。精神科医の著者が、病院を訪れた数人を題材に、昔とは違う現代的な「やさしさ」について語っています。もう13年も前の本ですので、ポケベルなど懐かしいアイテムもでてきますが、書いてある内容は古びていませんね。各章がそれぞれ一人の人物を中心に書かれていて、各々短編小説のような深い印象を残します。現代の小説家が書いた連作短編集といっても通用すると思います。

席を譲らないやさしさ、好きでもないのに結婚してあげるやさしさ、黙り込んで返事をしないやさしさ、など、考えさせられます。どの章も印象的ですが、特に第3章「縫いぐるみの微笑み」と終章「心の偏差値を探して」は、鳥肌が立つような見事な話です。第3章では精神分裂症にかかった若者と、小さなリスの縫いぐるみの話で、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせます。終章は司法試験に挑むエリート青年の挫折と再生について書いてあり、青春小説の一種として読む事もできます。

ほんとうはこわい「やさしさ社会」

森真一
ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書)


ヒット作続出の注目新書であるちくまプリマー新書から一冊読みました。もし私が中高生だったら、プリマー新書を全冊読破、とかやってしまいそうだな。

最近の若い人、特に大学生と話すときに、なんか妙な違和感を感じていました。良くわからなかったのですが、まず「やさしい」。特に男の子に強く感じます。気配りが行き届いていて、やさしくて、でも考えていることが良くわからない。他人のことを凄く気にするのに、結局利己的というか、実は他人に関心ないというような。最近ではネットにアップされている言動や、事例も多く、それらにも同様の違和感を感じていました。

この本の冒頭に次のように書かれています。


現代社会では、やさしさが人間関係のルールとなっています。それはとてもきびしいルールです。その結果、やさしさとは逆の「こわい」現象が起きています。

あ、そういうことか、と思いました。私の違和感を見事に言い当てていたからです。社会学の立場から、多数の例が上げられていますが、良いとか悪いとかはあまり書いてありません。判断するのは読者、というスタンスです。しかし、次から次に思い当たる事例が出て来ます。曰く、キャラ的関係、楽しさ至上主義、きびしいやさしさ、予防的やさしさ、など。この本に解決の答えはありませんが、新しい視点を得るのに良い本です。

『土曜日』

イアン・マキューアン
土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

大分に行く時、羽田で買った。本には出会いってのがあるんだと痛切に感じさせた一冊。これはすごい。

ロンドンに住む、ある脳外科医の土曜日一日を描いた本。ちょっとググればわかるように、多くの人が影響を受けている。340ページ、厚さ2.5cmの単行本は分量的にも良い感じだ。

最近になってやっと気付いたのだが、この、横13cm、縦19cmという単行本サイズは、視野を塞ぐのに丁度良い。文庫本は持ち運びに良いけれど、小さいので小説の世界にゆったりと入ることが難しい。1ページに納められた量も少ないので、ページを始終めくらなければならないというのも忙しない。そのため文庫本で読んだ話は、話の内容と無関係に多少窮屈な印象が残っている。それにくらべて、単行本で読んだ本は、ゆったりと足を伸ばせる風呂に入ったような余裕がある。

主人公の脳神経外科医である中年男性は、優れた頭脳と技術を持った人物であり、プラグマティックに大量の思考を巡らせる。そしてそれが、そのまま字になっている。これを読むと、人間がたった一日の間にこれだけ膨大なことを考えるのか、と驚くが、自分を振り返ってみれば、たしかに、かなりくだらないことまで含めて人間は大量に頭の中で言葉を巡らしているのだとわかる。ただ、私のくだらない脳内と違って、この主人公の脳内は読むに耐える。いや、彼の思考を辿ることで、自分まで優秀な脳神経外科医になったかのような仮想体験を得ることができる。

その彼が、朝4時の張りつめた不安の予兆から出発して、小さな偶然からいくつかの困難に立ち向かうことになる。そして事件が起きる。幾重にも重ねられたプロットがポリフォニーのように読者に響いてくる。

音楽をやっている息子、詩人として売り出し中の娘、弁護士の妻など、家族の描写も魅力的で良く雰囲気が伝わってくる。扱いが難しい年頃の息子とのシーンは、物語としては静かな、それほど重要ではない部分だが、私にはとても印象的に残っている。私自身の父とのコミュニケーションの微妙さや、父親としての自分に重なるところがあるからだろう。登場人物たちが、それぞれ自分の考えで、いろいろなシチュエーションにいて、その時々に相互にコミュニケーションを取るという日常、気分の微妙な違い、気持ちのズレ、修復、破綻。

全編を通じて現代的なコミュニケーションの物語である。金のあるなし、才能のあるなし、体力のあるなし、運のあるなし、与えられた状況の中で、みな生きようとしている。

ホワイトヘッドの哲学

中村昇
錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だったホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)


じゃぁ、人間の眼は簡単にだまされる、オンボロなのか、というと、話はそう単純ではない。

例えば、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫色に反応する眼を持っていたとする。そうすれば、もっと正確に色を見ることができる。ところが数が増えると色々と問題が出てくる。

まず、今の人間と同じだけ細かく見えるようにするには、2倍以上の細胞を詰め込む事になるので、目を巨大にしなければならなくなる。それから今は3つの信号を処理すれば良いのが、7つの信号を処理しなければならなくなるので、脳に大きな負担がかかる。

どうやって人類がこの三原色の視覚になったかには色々説があるようだ。いずれにしろ、生きてゆく上での色々な条件のバランスで、こうなっている。

三つの値だけで色を判定するという単純な仕組みになっているおかげで、人間は素早く色を見分けることができる。この素早さが大事だ。(それでも音に比べるとずいぶん遅いのだが)

『錯覚する脳』という本には、この「視覚は一種の錯覚」という話をもう少し広く書いてある。極端な言い方をすると、世界自体に色があるわけではない。色は、人間が見るから色となるのであって、世界にあるのは電磁波(でんじは)という波だ。電磁波のとらえ方には、色々な方法があって、人間の場合は、ある波長の電磁波に反応する三種類の細胞を、目玉の中ににちりばめてとらえている。

つまり、人間がいない世界には色が無い。世界にあるのは反射している電磁波であって、色は人間の目によって得られた信号を読み解いた、脳の中にだけある。

ところが、私たちは、身の回りの物、生き物に色が貼り付いているように感じられる。そのように世界を把握(はあく)している。頭の中にあるようにではなく、手に持ったリンゴが、赤い色をしているように見える。見事なイリュージョン(錯覚)だ。

これは聴覚や触覚など五感すべてに言える。

触覚は、皮膚(ひふ)のいくつかの細胞が起こした擦(こす)れ具合や、尖(とが)り具合、押しの強さといった反応を、脳が組み合わせて読み解いて得られるものだ。ところが私たちは、指の腹に何かがある、と感じる。長い経験を積んだ職人などは、指の腹の感覚だけでミクロン(1ミリメートルの1万分の1)単位の加工をする。これはまるで、遠い場所にあるロボットを操縦(そうじゅう)している人が、まるで自分がその場所にいて何かを触っているように感じながら、ロボットで針の穴に糸を通すというような話である。

ところで、『錯覚する脳』と一緒に読んだ『ホワイトヘッドの哲学(てつがく)』という本に書かれていた、ホワイトヘッドという人の考え方には、この話と良く似た世界の捉え方が書かれていた。あまりにそっくりなので驚いた。

ホワイトヘッドによれば、世界には変化があるだけで、その変化を見ている人も同じくその変化の中にいる。モノが見えたり、感じたりするのは、その変化を形の決まった、実際にはない、ある捉え方で捕まえることだ。三原色のように。(なお、ここで使っている用語は私流に適当である。ホワイトヘッドの使った本来の用語は注意深く特殊である。)

三原色だけでなく、電磁波も、それは電磁波、という捉え方をしたから、電磁波として現れたにすぎない。人間がそうやって捉えようとしたから、電磁波という姿で現れたのだ。人間の目がそうしているように色という捉え方をしたら、色として現れる。実際には、さまざまに変化しつつある世界があるだけだ。

要するに、私たちを取り巻く世界は諸行無常(しょぎょうむじょう)であって、変化しつづけている。さらに私たち自身も変化しつづけている。しかし、単に変化しつづけている、というだけでは、生きるのがしんどい。次に何もできない。次を考える事ができなくなってしまう。だから、無理やり形を決めて考える。

私たちは、決まった形の窓を通して世界に触れている。窓から入ってくる微かな信号に鋭敏に反応しながら、色や音に満ちあふれた世界を作り上げている。

ビオラが奏でる和音の音色、桜の落ち葉の深い赤、子供の手の柔らかさ、マンデリン珈琲の香り、それらはすべて、頭の中にしかない錯覚だが、いずれも窓から入ってくる世界の断片を伝える信号をもとに、作り上げたものだ。それら断片は私たちが、この世界で生き抜いてゆくために選び出した重要な鍵である。無駄なものはない。私たちが感じるすべてが鍵なのだ。

錯覚する脳とホワイトヘッド(その3) 人間の目と色

錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だったホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)


これまで赤いとか青いとか言っていたけれど、それは、人間が見てそう思う、ということだ。人間の目を無視して色を名づけることはできない。「700nmの波長の光」と「人間の頭の中の赤」が一致しているから、700nmの光は赤い、ということになる。

ここで三原色というのが出てくる。三原色そのものは美術などで習ったことがある人が多いだろう。しかし三原色の本質を理解している人は必ずしも多くない。人間の目の中には、赤の光が入ってくると、強く反応する細胞がある。赤にビビッと来る細胞だ。この細胞があるおかげで、人間は赤い色を見分けることができる。人間の目には、緑の光が入ってくると、強く反応する細胞もある。また青に強く反応する細胞もある。ところが黄色だけに強く反応する細胞というのは無い。では、なぜ黄色が見えるのだろう。

人間の目には、赤と緑と青に反応する細胞しかない。もちろん赤といっても700nmの波長の光にだけ反応するのではなくて、周辺の色(橙色や黄色にも)幅広く反応する細胞だ。おおよそ400nmから700nmまで幅広く反応するが、600nmぐらいで最も強く反応する山なりのカーブになる。

緑や青に反応する細胞も同じように山なりの反応をするので、黄色い光が入ってくると、赤に反応する細胞と、緑に反応する細胞が両方とも反応して、その強さの違いから黄色だということがわかる。

つまり人間は、三つの細胞の反応の強さしか分からない。

私たちは色を見ている、と思っている。というか、そうしか見えない。赤い薔薇を見て、赤い、と感じる。ところが、それは三つの細胞の反応の強さを感じているだけだ。赤、緑、青の三つの細胞の反応の強さを、例えば数字で表すと、色を見ているのではなくて、3、1、1という反応の強さを感じているだけだ。

「おー、大変美しい赤ですね」というのは「おー、大変美しい、3、1、1の強さですね」ということになる。

じゃ逆に、赤、緑、青に強く感じる細胞に、3、1、1の強さを与えると、どうなるか「おー、大変美しい赤ですね」となる。

人間の脳が反応しているのは、この細胞の反応の強さでしかないので、細胞が同じ反応をすれば、色が見えてしまう。コンピュータのディスプレイや、映画、テレビ、デジタル写真は、この原理を使っている。

純粋な赤の波長の光で、黄色や緑が含まれない光があったしよう。プリズムで分解したような光だ。もしくはレーザーとか。同じように緑だけの光を用意する。

さて、その赤だけの光を1の強さ、緑だけの光を1の強さで、同時に人間の目に見せるとどうなるだろう。光の波長としては赤と緑だけが含まれている。プリズムで分解すると赤と緑だけの虹になる、そういう光だ。目に入った光は、赤に反応する細胞と、緑に反応する細胞をおなじくらい刺激する。すると、人間は「おー、黄色だ」と感じる。もちろん黄色の波長の光を見せても、人間は黄色を見たと思う。ところが、黄色とは似ても似つかない、赤と緑の二つの光が混ざったものを人間は黄色と感じてしまう。

そう。赤と緑を混ぜると黄色になるのではない。人間が黄色と勘違いしてしまうのだ。

三原色というと、色の素(もと)が、赤、青、緑だと思っている人がいる。実は色に素なんてのはなくて、人間の眼をだますのに必要な最低三つの色が、赤、青、緑ということだ。これが三原色の原理だ(光の三原色)。

テレビを虫眼鏡で見たことのある人は多いに違いない。赤、青、緑の点々が並んでいる。これを離れてみると様々な色が鮮やかに見える。テレビから離れるにしたがって、色が突然出現するのではなくて、人間の眼が赤、青、緑の点々を区別できない細かさになると、それらに刺激された別の色が脳内に浮かび上がってくる。

(実際にはテレビもPCモニタも、単純な赤の波長というわけではなくて、赤を中心として、その周辺も含んだ光になっているため、赤と緑だけが発光した場合に、黄色を全く含まないというのは正確ではないが、原理的には正しい。)