ハリーポッターと賢者の石 (映画)

監督 クリス・コロンバス


映画「ハリーポッターと賢者の石」を家族三人で見に行った。妻と映画を見にいったのは、本当に久しぶりだ。何年ぶりだろう。

混んではいたが事前座席予約制なので、特段の苦労もなく映画を見ることができた。

けっこう長い映画だ。2時間30分。一番の心配は娘が持つかな、というものだったが、少なくともそれは杞憂だった。ずっと夢中になってみていたし、どうも今度は吹き替え版を友達と見に行くらしい。それくらい面白かったと言うことだろう。

私の第一印象は「あぁ良く映画にしてくれたなぁ」というものだ。本当に良く映画にしてくれている。もともと原作からしてビジュアルな、アニメのような小説なのだが、それを具体的に美しく映像化している。役者の選定、演技、舞台装置、小道具どれをとっても原作の良さを損なわないように丁寧に映像化されている。その心遣いは、やはり嬉しい。ある部分は、小説のイメージ通り、またある部分は私がイメージしていたのよりも、より美しくゴージャスだった。私の想像力以上だったのは、クィディッチと、集会堂で、クィディッチはやっとどういうゲームかわかったし、集会堂はもっと洞くつのようなイメージだったのだが、ゴシックな美しい協会、学寮風で原作の雰囲気によりぴったりだと思う。

原作からはいくつものエピソードが削られている。全く気にならないと言えば嘘になるが、それほど気にならなかった。それよりもずいぶんエピソードを選定するのに苦労したのだろうな、良くつないであると関心した。もともと原作も余韻を楽しむというよりは、パタパタと新しいエピソードが登場して、マンガ風に楽しませてくれるタイプの小説なので、余韻などは映画にも期待していなかった。その意味でも気にならなかったのかもしれない。

ところで原作を読んでいるときには気にならなかったが、映像化(それもかなり正確に)されて、はじめて気になることもいくつかあった。まずは、これは大きな話のほんのはじまりに過ぎないのだな、ということだ。逆に言うと、はじまりの予感の面白さ、というのもあるかもしれない。それから主要登場人物は思ったよりも少ないんだな、ということ。主人公格の三人と、先生達などマンガなみにキャラが立ったのが揃っている。このわかりやすさも作品の成功につながっているのだろうな。

ゆったり、その世界に浸るというタイプの映画ではなかったが、もともとそういうものではないだろう。ハイキングがてらピュピューっと遊びに行ってきたという感じだ。それはそれで良い。

ところで、この映画は大きく宣伝されて、またたくさん集客したようだが、実はとても不思議に思っている。また原作もあれほど売れるというのが不思議だ。

ある意味でこれは従来のファンタジーとは違う作品、というよりもファンタジーという古い名称をかぶせてはいけない作品なのかもしれない。それは「指輪物語」がハイファンタジーという新しい名前を得て、従来のファンタジーと区別されたように、一つの別のジャンルの最初の作品なのかもしれない。

ハリーポッターの読者層は、極めて広範囲に広がっている。まず思うのは、いわゆる従来のファンタジーに共通するいくつかの毒を持ち合わせていない、という点だ。例えば、人間の心の闇、精神的な苦悩、または逆にメルヘンよりとして、カビの生えたような民間伝承臭さ、夢実心地な逃避志向、雰囲気や余韻重視な高踏的な作風、性的な隠喩、暴力などである。これらは「ファンタジー=異端」という前提から出発したいくつかの帰結だ。

ハリーでは、すでにファンタジーはあたりまえという前提に立っている。だから呻吟は無意味だ。学園物の定番、ファンタジーRPGの定番、アイテムゲット、など週刊少年マンガ風な面白さを取り入れて、理屈無しに楽しませてくれる。私はこの紙芝居臭さが、なにやら原点回帰を感じさせてくれるので、とても嬉しい。

しかし世にマグルは多い。映画は、小説と違い、ちょっとした気の迷いで見ることができる。だから相当に多くのマグルが気の迷いで見てしまうことだろう。しかし、ハリーもやはりファンタジーの血筋を引くものであり、図らずも丁寧に映像化したことで、わかりやすく、そのお里を知らせる結果になってしまった。

願わくば、最終巻までこの丁寧さを失うこと無く映像化を続けてほしい。その意味で、映画の成功を心から祈るものである。


2001/12/11
few01